第1部 第1章 宇都宮編

第1話〈測量の旅に出発〉

「心配して朝から来てみたら……昨日の内から準備しておくようにって、わたし言ったわよね?」


「えっと……面目ない…………」


 生まれ育った故郷である江戸の町で、少し路地の方に入ったところにあるごく一般的な長屋で、俺は土下座の体勢になっている。

 名前は大崎栄。サカエじゃなくてエイが本名だ。

 外は朝の陽光がさんさんと差し、それを受けている俺の住む家には、所狭しと墨絵が広がっている。

 そして俺の前には、大きな荷物を背負った、18歳というには背の低い少女が立っている。


「エイが城好きなのは知ってるけど、こんな時くらい少しはガマンしてほしかったなー、なんて」


 俺のことを『エイ』と呼び、開かれた戸を背にして腕を組み立っているのは、なんとも明るい茶色の髪をした少女。


「いや、本当に……弁解のしようも無いです……」


 俺が踏み固められた土に額をこすりつけんばかりに頭を下げ、許しを乞おうとする相手は、自称天才美少女の『伊能忠敬』という人だ。


 小柄で比較的平坦な体つき。肩ほどまでの長さの輝いている茶髪と、体の動かしやすさを重視したのか少し体に合っていない大きさの服を合わせた彼女は、普段は大きく見開かれている黒曜の目を浅く閉じ、半目になりながら俺のことを見下ろしている。

 自称、と付けるには周りからの評価も高い彼女は、男女ともに視線を釘付けにしてしまうほどの外見をしている。端的に言うと、非常にかわいらしいのだ。


「エイは熱中するとそれ以外が見えなくなるのが、良いところであり悪いクセでもあるから気をつけてよね」


 はあ、とため息まじりに言われる。


「わたしも片付けを手伝うから、はやく出発しましょ。ほら、頭上げるのよ」


 伊能ちゃんが荷物を畳の上に置く。ずしんと音の鳴るそれは、相当に重そうだ。


「まったく……わたしの思い人は、どうしてこんなにも自分のことができないの?」


「思い人って、今どきらしく彼氏って言ったらどう、彼女さん?」


 俺がそう言うと、いくつかの絵をすでに拾っていた伊能ちゃんが手に持っていたものを全部落とした。そして、そのままの姿で固まっている。

 あ、顔真っ赤。


「そ、そんな浮ついたこと言ってないで、はやく片付けるのよ! 出発が日暮れになるわよ!」


 照れ隠しに大きな声を出している伊能ちゃん。

 何を隠そう、俺こと大崎栄と伊能忠敬は、男女の付き合いをしている。もちろん、両親ともに快諾してくれているぞ。

 付き合い始めてから、そろそろ2年が経つが、これから初めての長期旅行に行く予定なのだ。


「伊能ちゃんが持ってきたその荷物、それだけ大きいってことは当然、測量道具は忘れてないんだよね?」


 俺も描いた絵を拾いながら、伊能ちゃんに話しかける。膝をつき、四つん這いに近い姿勢で絵を拾う伊能ちゃんは、お尻の輪郭に沿うように服が張り付いている。小ぶりなそれが、誘うように俺の前で左右に揺れている。

 思わず見てしまうが、まじまじと見つめないようにする。前に眺めていたら、伊能ちゃんが警戒する猫のように部屋の隅から動かなくなってしまったことがあるからだ。

 いや、それはそれでかわいいから良いんだけど、今日は急ぎだからね。


「もちろん持ってきてるわよ。せっかく高い買い物をしたんだから、使わないともったいないでしょ」


「もったいないというか、幕府から全国測量を命じられたからね」


 俺が言うと、何かを思い出したのか伊能ちゃんは見るからに不機嫌になった。


「あの『おっとせい』め……! 脅して面倒な仕事を押し付けてきて! ……いやまあ、エイと2人っきりで出かける口実ができたから、よかったと言えばよかったんだけど…………」


 さっきからくるくる表情を変えて、見ていて飽きないなぁ。

 普通の町娘よりも控えめな背丈と、それとは正反対に自分の感情を隠し切れない性格。俺の彼女は世界一かわいいと思う。


「俺も、そろそろ伊能ちゃんと泊まってみたりしたいと思ってたんだよね。まさに、渡りに船だったよ」


「と、泊まりって、もしかしてわたしのことを手込めにしようとして……!」


「手込めって言うほど、荒っぽくはしないよ。それとも、もしかして伊能ちゃんは俺とそういう事はしたくない……?」


 したくない、と言われたら、ちょっとだけ悲しいけど俺は伊能ちゃんに従うつもりだ。好きな人には悲しくて泣いてほしくはない。

 でも、俺のそんな覚悟は杞憂だったようだ。


「そういうわけじゃ、ない、けど……」


「けど?」


 伊能ちゃんが言いにくそうにしている。

 ああ、俺の描いた絵がくしゃくしゃになっていくけれど、そんなものと比べ物にならないほど伊能ちゃんが愛らしい。


 両手を軽く握り、俺から視線を逸らして、でも視界の中に入れておきたくて様子を伺うようにしながら、顔を赤くしている。


「わたしだって、エイとなら、その……そういう関係になってもいいと思ってる、けど、面と向かって言われると恥ずかしいというか…………うあぁーっ! なんか熱くなってきたから、ちょっと表出てる!」


 伊能ちゃんが開けっぱなしにしていた戸から外に飛び出していった。一応どこへ行ったのか見ると、隣の家の軒下まで行っていた。

 そんなに離れていないから、気持ちを整理したらすぐに帰ってくるということだろう。


「いやはや……伊能ちゃんはいつ見てもかわいいなぁ」


 俺は片付けを続行しながら、独り言をつぶやく。


 江戸の町に技術革新がきて早25年。平賀源内という男がエレキテルを解析して発展させていった結果、様々な技術が生まれた。


 電気と呼ばれる新たな燃料は、これからどんどんと人の手を楽にしていくだろう。現に、街の治安を守る岡っ引きには電気式刺股が配備され出している。

 電気を通す線を各家に通して、家事を代行してくれる機械の普及を目指していると、知り合いの電気技師見習いから聞いたことがある。


 こんな風に昔から変わった風景も多いが、家や服装など変わらないものも多い。


「でも、測量の機械は大きく変わった物の一つだよなあ」


「そう! 技術の進歩によって、圧倒的な速度で超広範囲の測量ができるようになったのよ!」


 伊能ちゃんが帰ってきた。元気いっぱいなのはかわいいけど、力いっぱい引き戸を開けないで欲しいかな。


 あらかた片付いてきた俺の部屋だけど、旅に出発するための準備が完了していない。背負い袋を掴み取って、その中に必要な物を詰めていく。


「ずっと欲しいと思っていた物を、ついに買えた……。これでいろんな研究がはかどる、と思っていたのに……」


「あんまりにも高価なせいで幕府も手を出せなくて、最初に購入した人は幕府の代わりに全国測量の義務を与えることになっていたんだよね」


「そうなのよ。そんな面倒なことは断りたいのに、断ったら斬首って、いつの時代の話なのよ」


 最初は、緊張しいなりに幕府に逆らおうとしていた伊能ちゃんだったけど、流石に本物の刀を見せられたらそんな気も無くなってしまう。


「全国を巡るからどれだけ時間がかかってもいいってことだし、二人でゆっくり旅をしながら進めていこうよ」


「それもそうよね。買ったことに後悔はしてないし、試運転も人のためになると思えば、むしろ良いわよね」


 自分の中で納得した伊能ちゃんは、畳の上に置いてあった荷物を背負い直している。俺の方も、もうすぐ準備が完了しそうだ。


「そういえば、伊能ちゃんは留守の間の家を誰かに任せてるの?」


「任せられる人がいないから、張り紙だけしておいたわ。近所の人にもいつ帰れるかわからないって伝えてあるし、そもそもわたしの家に用事のある人なんて滅多にいないわよ」


 変な男とかに任せてなくて良かった。いや、伊能ちゃんがそんなことをする子じゃないってわかっているけど。


「片付けてたらもうお昼になってたのね。出発したら、まずはご飯から食べにいきましょうか」


「そうだね……と、準備できたよ。荷物が多すぎても動けなくなるし、最低限の物だけ」


 背負い袋を肩にかけて、伊能ちゃんに準備万端を示す。外に出た伊能ちゃんの後を追って、俺も外に出る。


 新しく作られ始めた電子錠は高くて買えなかったから、昔から使われている海老錠で戸締りをしておく。長い間家を空けるから、防犯は一応しておかないとね。


「鍵も閉めたし、いつでも行けるよ」


「それじゃあ、早速出発しましょうか! 全国逢い引きの旅……じゃなくて、全国測量の旅の第一歩よ!」


 伊能ちゃんも気分がたかぶっているのか、個人的に嬉しい言い間違いをしている。そして、俺を先導するように歩きだす伊能ちゃん。

 …………あ〜、あぁ〜、ガマンできない。


「伊能ちゃん」


「ん? どうしたのよ、エイ」


「すごく好き」


 振り返った伊能ちゃんに俺がそう伝えると、きっかり2秒停止したあと、顔がふっとうしそうなほど真っ赤になった。


「なっ……! ばっ……! き、急にどうしたのよ!」


「好きな人にこうやって言える時代だし、ならまっすぐ伝えようかなって」


 怒っているのか照れているのか、顔を手でおおった伊能ちゃん。小さくしゃがみ込んでいるその姿は、小動物みたいに見える。


「わ、わたしも……」


 消え入るような声で、伊能ちゃんが言っている。


「わたしも、エイのことが…………す、好き……なのよ?」


「うん、知ってる」


「聞いてるんじゃないわよ!」


 伊能ちゃんが顔を両手で扇ぎながら立ち上がる。ゆでだこみたいに赤くなった顔を冷ましているらしい。


「もう……調子狂うじゃない。ほら、行くわよ!」


 伊能ちゃんが再び歩き始める。照れ隠しで、さっきよりも大きく歩いているような気がする。


 そんな伊能ちゃんに、後ろから手を伸ばす。

 伊能ちゃんの頭を抱くようにして撫でると、背中から嬉しそうな雰囲気が伝わってきた。


 頭を俺の手に擦り付けるように、小さく左右に振っている。


「そうだ、伊能ちゃん。今回はどこまで行くの? 最初から全国を歩くわけじゃないよね」


「予定では10回くらいに分けて全国を回る予定よ。そして、今回の最終目的地は、エゾ東端!」


「蝦夷……海産物が豊富な場所だって聞いてるから、江戸とどう違うのか楽しみだね」


「まあ、最初による予定の大きな町が宇都宮だから、一旦はそこが目的地になるかしら」


「宇都宮といえば、やっぱり餃子が有名だよね。幕府が作れって命じたんだっけ」


「そうね。幕府の偉い人が好きみたいで、近場で大量に作らせたくて宇都宮を餃子の街にしたらしいわよ」


 今後のことを話しながら、伊能ちゃんと俺は大通りに足を踏み出した。

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