第0−3話〈伊能ちゃんと決意と〉

 そんなこんなあって、俺と伊能ちゃんは江戸城の敷地から外に出た。


「今度来るときはこの木版を見せるんだぞ。俺以外の兵士がここに立ってるかもしれないから、絶対に無くさないように」


 押し付けられた木版には、何かの形に焼かれた跡がついている。昔々の『勘合』みたいに、これと対になる物があるんだろう。


「急に天気が悪くなってきたな。暗くもなってきたし、闇で道を見失わないうちに、早く帰れよ」


 江戸城の外まで案内してくれた兵士は、自分の持ち場へ戻って行った。残されたのは、手に板を握った男と、同じく板を持っている女の子だけだ。


「えっと……どうしようか、伊能ちゃん?」


 伊能ちゃんに、できるだけ優しい声音で声をかける。さっきまでの感じだったら「一体、どうしようかしら?」とでも返ってきそうだ。


 が、


「あっ……ごめ…………」


 スッと、俺から一歩分だけ遠ざかられた。


「あ……ど、どうしたの?」


「そ、の……さっきまでは色々あったから、気づいてなかった、けど」


 ふーふー、猫みたいに唸っていた伊能ちゃんはどこへやら。今の伊能ちゃんは、小さくなって怯える子猫みたいだ。


「わたし、初対面の人と話をするのが……苦手で。それなのに、いきなり手を繋いだり、したから……今さら、緊張して、きて」


 顔を赤らめるを通り越して、完全に青ざめてしまっている伊能ちゃん。


 俺も、今さらながらなんて無神経だったんだろうと後悔している。


 そりゃあ、初対面でいきなり盗み聞きされて、そのときに話していた夢を勝手に応援されて、その上自分の夢に首を突っ込まれそうになっているんだ。とんとん拍子に話が進んでいるから、怖くなってくるのも当然だろう。


「さっきも、行きたいって言えばよかったのに、言えなくて…………こんなわたしに、全国測量なんてできないんだろうな……」


 伊能ちゃんの頬を、涙が伝う。


 その涙を覆い隠すように、雨が降り始めた。


「あ……か、帰らないと」


 俺に背を向けて、伊能ちゃんが走り出す。


「さ、さようなら」


 消え入りそうなほど小さな声で、俺に別れを告げる。


 残された俺は、涙を流す伊能ちゃんになんと声をかけたらよかったのかを、延々と考えていた。


  * * *


 翌日。


 あの後、雨で濡れた重い服を引きずるようにして家へ帰り、それからもまた考え続けた。


 そうして出た結論は、結局変わらなかった。


「よし、伊能ちゃんを探しに行くぞ」


 昨日言っていた伊能ちゃんの言葉は、売り言葉に買い言葉で出てきたのかもしれない。それでも、きっとあれは本当の言葉だった。


 ここからはただの自己満足だ。でも、それでも伝えたい。


 俺と同じく不可能に近い夢を持つ伊能忠敬ちゃんに、きっと夢を叶えられると。


「夢を口に出すことすらできない俺とは違って、伊能ちゃんは口に出せるくらいしっかり考えているんだ。それに、好機は目の前にやってきたんだ。これを逃す手はない」


 とは言っても、きちんと俺の話を聞いてくれるとは思えない。あんな避け様だったから、1日や2日では大した変化にならないだろう。


 なんとか、伊能ちゃんにも心を開いてもらわないと。


「その辺りは追々考えようか。とにかく、伊能ちゃんを見つけないと」




 家を出た俺は、一先ず昨日伊能ちゃんを初めて見た測量道具屋にやってきた。


「流石に昨日の今日じゃいないか」


 店内を見回すが、人の気配がない。あんまり繁盛してないみたいだし、幕府から有能な人材を集めるためにつくられたりでもしたのかな?


 あとは、昨日シン・江戸城から帰るときに走って行った方角を虱潰しに歩き回るしかないか。


「仕方ない、がんばろうか」


「あ、アンタさん、昨日の……」


 店の奥から、しわがれた声が飛んできた。


 声のする方を向くと、腰がしゃんと伸びたおじいさんが立っていた。


「えっと、貴方は……」


「この店の店主じゃ。昨日は、あの少女を連れ出してくれて、ありがとう。本当はワシが行くべきだったんじゃが、いかんせん体が言うことを聞かなくてな」


 そしていきなり、深々と頭を下げられた。


「き、急にどうしたんですか!?」


「どうか、あの娘を大切にしてあげてほしい」


 なんだか、娘の嫁入りを願い入れる父親みたいだな……何かあるんだろうか。


「あの娘は、両親と離れて生活をさせられとるんじゃ。それも、まだ幼い頃から、ずっとじゃ」


 頭を下げたまま、店主のおじいさんが話を続ける。こんなに年上の人から頭を下げられた経験なんて無いから、こういうときにどうしたらいいのかわからない。


 おろおろしたまま、おじいさんの話を聞き続ける。


「あの娘の親が何を考えてるのかは、ワシは知らない。じゃが、ずっと寂しそうにしているのはわかる。なにせ、10年も近くで見とるんじゃ。それでも……あの娘が誰かに甘えたがっているのは、満たしてあげられなかったんじゃ」


 後悔を吐露するように、重い言葉が放たれる。


「ワシは結局、測量道具屋の店主としての立場でしかいられなかった。甘えられる大人ではなく、信頼できる店の主だったんじゃ。……ワシと嫁の間には子供が産まれなかったから、気持ちでは娘として扱っていたんじゃがな」


 信頼できる人と甘えられる人は、確かに違う。信頼して話ができる人でも、わがままを言うのは難しい。そして、一度定まってしまった人間関係は中々変えることができない。


 このおじいさんみたいに『優しい大人』に囲まれて成長した結果、伊能ちゃんは自分を出せなくなったのかもしれない。


 周りの大人になんでもやってもらえてしまう環境が心地よくて、でもそれに甘え過ぎちゃいけないことはわかっているから、距離を置く。そのために、なんでも自分1人でやろうとしてしまう。


 そんな環境で育ったから伊能ちゃんは、人に甘えられない、人を遠ざける性格になったんだろう。


「じゃから、歳の近い、そしてまだ初対面のアンタに頼みたい。あの娘を大切にしてあげてほしい。そして、甘えられる場所になってあげてほしい」


 心からの頼みだった。


 おじいさんはシャキッとした腰を大きく曲げて、こんな若造にするようなものではない頼み方をしている。


 それだけ、伊能ちゃんのことが心配なんだろう。


「…………わかりました。俺も男です。腹を括ってきます」


「——よろしく、頼む」


 こうして測量道具屋の店主と別れ、再び伊能ちゃんを探し始める。



 そして伊能ちゃんを見つけたのは、それから4日経った日だった。



「あれは……伊能ちゃん?」


 いつもの商店街から離れた、少し入り組んだ住宅街。

 伊能ちゃんが俺と別れるときに走って行った方角だ。


 遠目に見える伊能ちゃんらしき人影。特徴的な茶髪が曇天の下でも眩しく感じる。


 だが、様子がおかしい。何かに怯えているような……?


「オラ! ……いいかげ……とな…………て来い!」


「いや……! 離し……!」


 遠くて声が聞こえにくいが、争っているらしい。


 そしてついに、伊能ちゃんが引き込まれる様にして路地に入っていった。


 俺は、走ってその後を追い出した。

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