僥倖

半田虻

僥倖

 洋子は気だるげな午後の日差しに照らされながら西へと向かっている。遠くの時計台の鐘が鳴って、時計の類いを持たない洋子に時刻が5時になったことを知らせてくれた。もう5時?洋子は夕方に差し掛かったとは思えない身にまとわりつくような暑気に辟易した。


 中心街を貫く広い車道の両脇に沿う歩道はこれまた広い。耳につくキリギリスの鳴き声。秋の風物詩たる昆虫の声も、今の洋子には不自然にトーンの高い女の嬌声にしか聞こえない。果たしてこんなところにキリギリスは棲息していただろうか。洋子はその鳴き声が幼少期を田舎で過ごした自分だけに聞こえる幻聴ではないかといぶかった。


 洋子はいわゆる悲劇の主人公ではない。健全な家庭のもとで育ち、良識ある夫に出会い、順当に子供にも恵まれた。文学を好むが、自己陶酔的な死への憧憬にとらわれているわけでもない。他の無数の人々と同じように様々なしがらみが洋子を死から遠ざけていたし、何より死は洋子にとって最も恐ろしいものの一つだったのだ。洋子は現状の自分にそこそこ満足していて、洋子の人生は驚くほど安定を保ったまま折り返しを迎えようとしていた。


 しかし洋子は西へ向かっていた。何も持たず、何の目的もなく、ただ無心になって。洋子の指針は今や地平線にその外縁を交わらせようとする真っ赤な夕日だった。

洋子は飲み干されるペットボトルの水のことを考えていた。はじめは確かに容器の中に存在して、密閉された空間内でアイデンティティを獲得していた水も、誰かの身体の中に入ってしまえばついぞ行方は分からなくなる。自分でさえ自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。今の洋子はペットボトルに入った水だった。家庭という容器に入ることでようやく自己の存在を保てている、社会性をまとった水。洋子は誰かに自分を飲み干してほしかった。何物でも無い、というよりむしろ、意図せずして何者かになってしまった自分に少し絶望していたのだ。洋子は悲劇を欲していた。安定にはもう食傷していた。しかし死ぬことは洋子の選択肢にはなかった。死は平和呆けした洋子にとってはどこまで行っても恐ろしいことだった。


 夕日は異常に大きく、地平線に半分ほど隠れている。徐々に肥大していく夕日、それを洋子だけが見ている。夕日はいつしか洋子の視界を半分ほど埋め尽くしていた。洋子は歩みを止めて歩道に立ちつくし、今やはっきりと見てとれる夕日のうごめく表面を静かに眺めた。


 洋子の輪郭が揺らぎはじめた。洋子の内部から何かが流れ出している。夕日の磁力に引き寄せられて、洋子は飲み干されていく。洋子は自分が消失していく感覚をはっきりと感じていた。母胎の中でゆっくりと形作られた原初の記憶が甦る。夢幻のあいだをただよう心地良さに洋子は身を任せた。___「文学的悲劇」洋子は恍惚とした快感に苛まれた。


 夕日が笑っている。洋子を飲み込んで地の果てへ消えた。後には夜の静寂。

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