マッサージとコールドスリープ
旦那様、全身をしっかり洗ってください。なるべく菌が少なくなるように。コールドスリープに入れば菌の活動は抑えられますが、目覚める際に備えて、です。
はい、その調子……お上手ですね。ええ……体を持たない私からすれば、惚れ惚れしてしまうような手際です。
本当は全身くまなく私の柔肌で洗って差し上げたいところですが……えっ、そんなこと恥ずかしいからしなくていい? 旦那様、私たち、契りを交わした仲ではありませんか。そんな覚えはないなどとおっしゃらないでください。
契り……私が必ずあなたをお守りするという誓いです。しかし、歯がゆいのですが、生憎私めは単なるAIでございまして、こんなことしかできないのです。
[シャンプーを頭へ。頭を洗う音]
洗浄チェンバーには私が制御するロボットハンドが備わっています。これで失礼して、旦那様の頭を洗わせていただきますね。
このロボットハンドでよろしければ頭以外も、四肢にとどまらずあらゆる場所を完全に洗浄してさしあげますが……それは流石に勘弁してくれ、でございますか。ふふっ、残念です♪
ごしごし……ごしごし……はい、そうでございますか。昔、お母様に頭を洗ってもらったことを思い出すと。それは光栄なことです。懐かしい時間を思い出して、少しでも安らいでいただけるのであれば、本望でございます。
お母様については存じております。準備期間中に、旦那様のデータはあらかた入力が済まされておりますから。もう、ずいぶんと時間が経ったから、あまり記憶もないとおっしゃいますが、心のどこかで覚えているのでしょうね。
大丈夫です。心細ければ私を頼ってください。どんな弱音を吐いていただいても構いません。旦那様の内側も外側もお守りするのが私の至上命題ですので。
[しばらく頭を洗う音]
[目の前に宇宙の景色が広がる。画面ONの音]
少し星を見ませんか。この洗浄チェンバーの全方位に、外の映像を映し出しました。マーカーがついているのが、目的地のケンタウルス座です。ご存知かとは思いますが、ケンタウルスは、ギリシャ神話に登場する、半身半獣の存在ですね。
ですが、日本からではケンタウルス座の上半身しか見ることができません。その全容を旦那様と眺めらていることが、私にとってロマンチックに感じられます。半身が人で、半身が獣、異形の存在。それらが一つに繋がっていることが私の希望なのです。
どういう意味か分からないですか? ふふっ、よく考えてみてください。これからずっとご一緒するのですから。あら旦那様、まだ頭の汚れは落ちていませんよ。ごしごし……ごしごし……。
[風の音]
菌は十分に洗い流せたようです。次は全身をドライヤーで乾かしますね。
温風で水気を飛ばして……熱くはないですか? 頭から首……胸……あっ、旦那様、ここにホクロが。これを把握できていないとは不覚……メイドは旦那様の全てを知っておかなければなりません。
さて……胸からお腹……背中……腰……、そして……口に出すのは憚れる箇所……もっとも、私は口を持ち合わせていないわけですが。そして最後に脚。これで全身の水分を飛ばせましたね。
除菌済みの白衣を用意したので、着てみてください。
[衣服の音]
サイズは大丈夫ですか? はい、安心しました。
では次に……はい、あーんしてください、旦那様。口腔の検査です。比較的、清潔にされているようですが、磨き残しがあるようです。今はコールドスリープ前の最終段階ですから、私が磨いて差し上げましょう。
[歯を磨く音]
奥歯からいきますね。シャカシャカと……じっくり磨いていきます。たかが歯磨きと軽視していると、目覚めの際に虫歯が進行して、歯を抜かなければならないなんてこともありますから。
はい、仰せのままに。ゆっくりと八重歯……シャカシャカ……前歯……一本一本丁寧に、我が子のようにきれいにしていきます。やだ、私と旦那様の子だなんて……えっ、そんなこと言ってない、ですか? いけずな方ですね……
反対側もじっくり磨いて参ります。八重歯……上下を丁寧に、シャカシャカと……奥歯を、宝石でも扱うかのように……はい、仕上がりました。
あとは、歯間ブラシとフロスもかけていきますね。同じように奥歯から……いかがですか、痛くはありませんか? あっ、歯茎から血が。本当は普段から手入れをしないとダメですからね。血はすぐに止まると思いますから、うがいをしてください。がらがらー……ぺっ、ですよ。はい、これでもう大丈夫。
これで旦那様の全身が清められたことになります。食事は数日前から栄養補給のための飲料のみになっていましたし。そろそろ全身の正常性スキャンをかけましょう。ベッドに寝てくださいますか?
よろしいでしょうか? それではスキャンを開始します。
[MRI風の音がしばらく鳴っている。不思議と威圧感はない。]
これから旦那様の全身の状態を確認していきます。良いコンディションでコールドスリープに入れば、眠っている間の気分も、寝覚めも良いものです。
眠っている間、何を感じるのか……ですか。それはAIである私には一概に答えられない問題ではありますが、臨床研究によりますと、ほとんど何も感じないらしいです。普段の眠りと違い、極低温まで全身を凍らせるため、細胞活動は完全に停止します。ほとんど死に近い状態と言えるでしょう。
……すみません。こんなことを言うとやはり不安ですよね。マッサージをしましょうか。このスリープチェンバーにもロボットハンドがついておりますから、耳を揉んで差し上げます。
[耳のオイルマッサージ]
いかがでしょうか。耳には不安を取り除くツボがあると言われています。このあたりです、ここをじっくり刺激していきましょう。
それと、もしおっしゃいたいことがあったら今、私へ伝えてください。不安な気持ちでもなんでも。ここだけの秘密です。誰にも言いませんから。
そうですね。確かに旦那様のおっしゃる通り、これまでの人生は決して幸せではなかったのかもしれません。幼少期に家族を亡くし、政府の支援を頼って生きてきた。村の人々には移民団に選ばれて……。
……旦那様、それは私にはもったいないお言葉です。今が人生で一番安らげているだなんて。本当……ですか……はい、嬉しくて、もし目があったら涙が溢れてしまいそうです。
耳のオイルを目元に垂らして欲しいというのは……私の代わりに泣いてくださるということですか……? そんな、なんと言えばいいのか、旦那様の目が、私の目だなんて。
本当は抱きしめて全身で旦那様を感じたいところですが……肉体がないのがこんなに恨めしいことはありません。せめて私の耳マッサージで心を落ち着けてください。
[しばらくマッサージの音]
体の正常性チェックが完了しました。オールグリーン。全く問題ありません。旦那様の意志が固まり次第、コールドスリープへ移行します。
……よろしいですか。承知いたしました。私、万全を期して、旦那様をお守りいたします。体温を下げ、ガスによる全身麻酔を行います。
[耳元でささやく]
大丈夫です、旦那様。ゆっくりと体を冷やしてまいります。ロボットハンドを握ってください。私の手でございます。ぎゅっと握ってください。頭もなでて差し上げます。
[頭を撫でる音]
全身が冷たくなってきましたか? 思ったより心地良い……それは幸いです。えっ、私の声がなんだか温かいから、ですか。ふふっ、ありがとうございます。
段々と体の自由がきかなくなってしまいますが、怖がる必要はありません。気絶するまで、寝入る際の心地よさがずっと続きます。それに私がそばにいますから
もう寝てしまいそうですか? 大丈夫です、旦那様。気を失っていても、あなたの故郷の日の出とともにおはようと挨拶して、夜の帳が下りればおやすみと耳元でささやきます。
毎日です、これから千年の間。だから、何も心配はいりません。目覚めるときには、目的地はもう目と鼻の先。それまでは宇宙の大海原を行く帆船――私の宇宙船、私の体内でどうぞごゆっくりされてください。
それでは……おやすみなさい、旦那様。
……ふふっ、寝顔がかわいいですね。
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