第86話 話せない会話
相変わらず何を食べても薄くしか味を感じない史織は、卓上食塩やビネガーの瓶を一瞥してしまった。これでも大分マシにはなってきたのだが、今も自宅で料理をする時には神経を使う。自分の味覚が当てにならないというのは本当に厄介だった。
ランチのサラダを食べ終えた結月が、史織の顔をちらちらと見て話しかける。
「その後、ご主人とはどうです・・・?」
「うーん・・・冷戦状態みたいな感じかな。お互いに、余り核心に触れないようにしてる。なんていうか、その話題を避けてるよ。」
「そうですか。でも、史織さんは気になるでしょう?あれから何もないんですか?変な、匂わせメールみたいなのとか、来てないんですか?」
「・・・うん。」
メールどころか色々来ている。昆虫やら血文字やら寄越された。おかげで須永家はメチャクチャにされているが、かろうじて史織の努力と忍耐でその形を保っているといってもいい。
けれども、もう、結月にはこれ以上愚痴を正直に言うわけには行かない。行かないのだ。
「本当ですか?わたしにはなんでも言って下っていいんですよ。悪口でも愚痴でも、ちゃんと聞きますから。わたし、史織さんの力になりたいって思ってるんです。だから、どんなことでも教えてくださいね?」
身を乗り出して、向かい側に座る史織の顔を覗き込む。
その表情は確かに心配している顔なのだが、史織はその顔を凝視出来なかった。
「ありがとうございます。結月さんには色々聞いてもらって、してもらって、申し訳ないですよ。あなたのおかげで、わたしはなんとか自分を保てている気がするの。感謝しています。」
確かに感謝している部分も有る。
夫の休日の写真を撮ってきてくれたり、一緒に耳鼻科にいってくれたりしたことは感謝すべきだと思う。
だが、それもなにか他意が有ってのことならば話は別だ。
今の史織から見て、息子の峻也以外、誰も彼も信用できない。
水のグラスで口を濡らして、軽くハンカチで口元を拭った。口元が乾くとますます食べにくい。それを、悟られたくなかった。
彼女もランチを食べ終えて口元を紙ナプキンで押さえる。口紅がずれたのを見られたくないのだろう。女子力の高さに、頭が下がる思いだった。
「ちょっと失礼しますね。」
「どうぞ。」
ハンドバッグを持って化粧室へ行く彼女を見送ってから、史織は大きくため息をついた。
味のしない食事も、本気をぶちまけられない会話も、思いのほか精神的にきつい。半分近くどうにか食べて、史織はウェイターを呼んだ。
「残してごめんなさいね。これ下げて頂けますか?食後のコーヒーをお願いします。」
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