第76話 気まずくても

 驚愕の余り呆然と立ち尽くしてた史織のスマホが鳴った。

 ハッと正気に戻った気がした。自宅からの電話番号。とういことは、息子からなのだ。

「すみません、ちょっと失礼します。」

 その場で電話に出る。

 受付嬢は気にするなとでもいうように軽く手を振ってみせた。

「もしもし、峻也?」

「お母さん、遅いよ〜。お腹空いたよ〜。」

 お気楽な息子の声が聞こえてきて、安堵する。

 この少年らしい少し高い声。屈託のない無邪気なそれが、まるで染み渡るように心の中へ入ってくる。

 胸が暖かくなるような気がした。

 そうだ。何を置いても、自分にとって大切なのは子供だった。

 峻也を守るためにならなんだって出来る。たとえ夫が自分を裏切っていたとしても。

”あなた自身がどうしたいと思っているのかが見えなくなってるだけなんですよ。”

 インターンだと後から知った先程の医師の言葉が脳裏に浮かぶ。

 史織自身の望みは、家族を守ること。それだけだ。

 すべきことが何かを知るのではなく、したいことは何かを知る。そうすれば、自然と迷いは消える。

 エントランスの壁掛け時計を見れば、午後6時を過ぎていた。いつもならば帰宅している時間だ。

「ごめんごめん。すぐ帰るからね。」

「お仕事、長引いたの?」

「うん、ちょっとだけ。大丈夫だよ。」

「わかったー。戸棚のおやつ食べてていい?」

「半分だけにしておいてね。」

「はーい。」

 短い会話を終え、スマホをしまうと受付嬢がにっこりと笑いかけた。

「気をつけてお帰りくださいね。お大事に。」

「は、はい。色々と、ありがとうございました。」

 史織は深々と頭を下げ、病院を後にした。


 

 その日の夜遅く帰宅した洋輝は、リビングで起きて待っている妻の姿を見つけて少しだけ腰が引けているようだった。

「おかえりなさい。お疲れ様。」

「うん、ただいま。」

 まだ少しだけ気まずいけれど、それでも夫はその場で上着を脱ぐ。史織がそれを受け取った。

「夕食は、済んでる?」

「いや、まだだけど。途中でコンビニ寄ったから。」

「そう。じゃ、少し、話出来るかな?」

 話をするかと問われて夫は眉根を寄せた。

 また喧嘩をするのが嫌なのだろう。

「お願い。もう泣いたりしないから。冷静に話し合うって決めたから。」

 夫が気まずく思っていることはわかっている。

 でも、言い争いをしたいわけじゃないのだ。それは、夫婦ともに同じはず。少なくとも史織の信じている夫ならば。

「わかった。コーヒー淹れてくれるかな。アイスがいい。」

「うん。ミルクとシロップ入れる?」

「そうして。」

 観念したのか、洋輝はそう頼んでからリビングの床に腰を下ろした。




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