第4話 口紅

 その口紅を手に、史織はその場に蹲る。

 明らかに使用済みの、ピンクプラムカラーの口紅。この色は愛らしいイメージの女性に似合うと思った。史織も可愛らしいから欲しいと思ったけれど、子持ちのおばさんが身につける色ではないと思って断念したのだ。

 ソファで高鼾の夫の方をちらりと見た。

 まさか洋輝が女装する趣味に目覚めたわけでもあるまい。仮にそうだとすれば、それはそれで話し合わねばならないだろう。

 洋輝は、中肉中背だがまあまあマッチョな部類だ。顔も美形ではないがそれなりに愛嬌があって悪くはない。営業と言う仕事柄、口もうまいし人当たりも良いから、若い頃はそこそこ女の子にモテたと思う。結婚して10年になる史織には、夫に女装趣味があるとは到底思えない。

 今朝のメールのことが頭を過る。

 鼾をかいて眠りこける夫のだらしない寝顔を凝視した。疲れているのは間違いない。元々、洋輝は鼾をかかない質だっただったのに、仕事が忙しくなりはじめた昨年からこうやって鼾をかくようになった。

 その辛い仕事を家族のために毎日やってくれている。

 勿論、史織だって同じように頑張っているが。

 休みの日は、家事もやってくれるし峻也とも遊んでくれる優しい人だ。


 壊したくない。


 手に持った口紅をぎゅっと手に握りしめ、自分のズボンのポケットに入れる。

 そのまま、夫の上着をハンガーにかけて、寝室に有るクローゼットへ収納した。

「洋輝、夕ごはんだよ。起きて。」

 史織は軽く手を夫の肩に添えて言った。

  


 翌朝も、いつも通りの朝だった。

 小学校へ出かけていく峻也を見送った後、洋輝と史織はほぼ同じくらいの時間に家を出る。

「いってらっしゃい。気をつけてね。お仕事頑張って。」

「うん、史織も無理しないでな。」

 互いを労る声を掛け合って出勤していく二人は、どこからみても仲の良いごく普通の夫婦だ。

 寝不足の頭を軽く手で押さえてから、史織は最寄りのバス停へ歩き出した。

 一晩考え続けて、決めたことは。

 メールのことも口紅のことも、今は何も聞かない。

 聞いてしまえば、壊れる気がして、何も言えなくなってしまった。

 忘れてしまおう、何もなかったことにしてしまおう。

 洋輝は良い夫だ。良い父親だ。わざわざ事を荒立てて、相手の秘密を暴いて何になる。このままの生活を壊したくはないのだ。

 通りの向こうからこちらへ向かってきて停まるバスに向かって、史織は昨日と同じように足を向けた。

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