第15話 実験と希望
――ぱち、ぱち……と幾度か瞼を瞬かせながら、エマは失っていた意識を次第に取り戻した。
「……?」
目を覚ました彼女が第一に視界に捉えたのは、大勢の人々があちらへこちらへと忙しなく行き交う光景だった。
彼らは何をしているのか――そして、ここは何処なのだろう。
徐々に意識がはっきりするにつれ、エマは自身が何者かの手によって誘拐されてしまったことを思い出す。
なぜ自分が無理矢理連れ出されたのか……。
抵抗虚しく連れ出されてしまったことは、今更どうしようもない。
済んだことを後悔するよりも、今は逃げるために自身の現状を把握することが優先だ。
幼心にそう考えたエマは、まずは自分が置かれてしまっているこの現状を知ろうと、目前を足早に行き来する人々の隙間を縫うように視線を走らせる。
「……」
空間全体を見渡すと、エマはこの場所の雰囲気が最近慣れ親しんだものと同種のものであることに気が付いた。
壁面に刻まれている装飾や、部屋そのものの建築様式。
それらは彼女がここ数週間暮らしていた、レイモンドの管理する教会の聖堂と非常に似通っている。
となれば、この場所はどこか別の教会の聖堂なのか――そう思ったが、何かがおかしい。
よくよく考えれば、説法の際などに使う長椅子が邪魔だとばかりに片づけられている。
それだけではなく、エマはいたる所に色々と雑多にものが積まれていることに気が付いた。
生活相談や告解に訪れるお客のために、目に見える場所である聖堂は常に清潔、整理整頓を心掛けないといけない。
レイモンドにそう教わっていた彼女は、この場所が本来果たすべき役割を果たせていないのではないかと考える。
――では、ここの役割とはいったい?
「……?」
「ふむ、眼が覚めたか。薬の浸透がやや甘かったか? まあ良い、起きたとはいえ何が出来るわけでもない」
抱いた疑問について考えようとした矢先、エマの前で立ち止まった一人の女性が彼女に興味深そうな目を向ける。
そのガラスのように透き通った瞳に、エマはどこか肌寒く感じた。
レイモンドの向けてくる情愛に満ちたものとはほど遠い、いっそ正反対とも呼べる無機質な瞳が彼女を射抜く。
「……!」
「脱出の試みは無意味だ。労力の無駄、諦めろ。今お前を包んでいるのは、本来重犯罪者に対して用いられる拘束衣。優れた筋力を持つ亜人でさえ抜け出せない代物、ましてやただの子供がどうにか出来るものではない」
咄嗟に身体を動かそうとしたエマだが、そこでようやく自分の身体が思いのままに動かせなくなっていることに気がついた。
彼女は今、レイモンドに買ってもらった可愛いパジャマではなく、見覚えのない灰色の分厚い衣を着せられていた。
その上から更に、銀色に輝く金属の輪と革ベルトを組み合わせて作られた拘束具によって全身を固定されている。
いくら身を捩ろうとも、その拘束は小さく擦れる音を立てるだけで外れる気配を見せない。
そして、彼女はそれ以上におかしな現状を目にした。
今のエマは、なにか柱のようなものに括り付けられて無理矢理に立たされている。
その足元には彼女を取り囲むようにして、ミミズののたくったような気色悪い文字が、血を想起させる深い赤色のインクを用いられて放射状に描かれていた。
その悍ましい言葉の連なる光景を――魔法陣が示す意味を、エマは覚えていた。
それは、かつて彼女を含む数人の女子供を監禁していた連中が盛んに口にしていたことだ。
――中央に置かれたものを生贄とする、
「明晩だ。満月の下にお前を生贄に捧げ、【
「……!」
満足げに語る女性を、エマは声が出せなくとも、きっと睨みつける。
彼女に対して、女性は優しい口調で語る――それはまるで、物分かりの悪い子供をあやし、諭すかのように。
「分かるか? 生贄とは、単に悪魔がこの世に顕現するための楔以上の意味を持つ。悪魔は生贄を通してあちらの世界からやってくる――では、帰還する時はどのような経路を使っている?」
「……」
「諸々の実験により、我々は突き止めた。悪魔は、来た時と同じ通路を使って元いた世界へと帰る。つまり、生贄とは
女性はそろりと手を伸ばし、拘束衣の上から、その指でエマの下腹部を下から上へ撫で上げた。
その感覚にエマは背筋が凍るような錯覚を覚え、反射的に顔を強張らせる。
「
女性の手つきは、妙に手慣れたものだった。
たった今彼女が口にした結論を導き出すために、どれほどの犠牲が生まれたのか……。
ぶ厚いはずの布越しに伝わる冷たい感触に、思わずエマは唾を呑む。
対する女性の顔はどこまでも冷めており、その瞳は熱を尽く奪う深海色の様相を保っていた。
「今回、我々は第一段階として
「……!」
「加えて、件の
「……!」
「我々には過去の愚者どもとは違い、神の御加護がある。
「……!」
「
語り終えた女性の頬は落ち着いた口調とは裏腹に紅潮しており、その目はどこかエマの理解の及ばない遠くを見ているように見えた。
その様子が空恐ろしいものに感じられて、エマはがちゃがちゃと拘束具を鳴らす。
それを見た女性は薄い笑みを浮かべて、彼女の抵抗を無駄だと断じた。
「逃げられはしない。そして誰も助けには来ない。あの【鉄拳】でさえもな。今頃奴は死んでいるか、そうでなくとも重傷を負って満足に動けないでいる。奴をやった場には
「……」
そう聞かされた時、エマはふとレイモンドについて考えた。
声の出せない、扱いずらいであろう自分を優しく守り、一緒に生活してくれた神父。
なぜあれほどまでに親切にしてくれるのか、未だエマには分からない。
……それでも、目の前の女性とレイモンド。
彼女の話す凍てついた言葉と、彼の与える肌の温もり。
どちらを信用するか、エマは迷うまでもなかった。
「……!」
「……しぶとい目だ。よほどあの神父を信頼しているのか」
彼女の心にある、話せない自分だろうと常に優しく接してくれたレイモンドの顔。
それが胸にある限り、彼は絶対に助けに来てくれるとエマは強く信じていた。
「希望。それは
「……!」
「鍵は【鉄拳】。となれば必要なのは、奴の死体か? 連中をいくらかやって、回収させてこよう。万が一それが失敗したとしても、人を追い詰める手法などいくらでもある。まだ一晩ある、それを一通り試すこともできるだろう――」
――ずんっ、……。
その女性の言葉を、何処からともなく響いた揺れが中断させた。
「――なに?」
地震とはまた異なる振動に、女性は眉を顰める。
「
――どがっ!
――ばきっ!
――ずがぁんっ!
揺れの音は打撃音に変わり、そして徐々にエマと女性らの下へと近づいてくる。
それを不安に思った周りの人間が、女性の傍に駆け寄る。
「あの、
「教会にまさか侵入者など、そんな馬鹿な……」
「うろたえるな。予め召喚していた
――がごぉぉぉんっ!
一際強く鳴り響いた音と共に、室内に一陣の風が吹く。
その風の向こうから飛来してきた巨体が、反対側の壁と衝突して崩れ落ちた。
見れば、それは首から上が無惨にも引き千切られた
「――見つけたぞ」
埃の舞う、壁に開けられた風穴からそれを為した侵入者が姿を現わす。
神父服の裾をはためかせて登場した彼こそは、【鉄拳】。
エマが信じていた神父レイモンドの、なんら変わらない姿がそこにはあった。
「まさか教会内に
レイモンドは、手に持っていたスイカほどの大きさの物体を女性らの足元に投げつけた。
「これは……」
「ひっ、ひぃぃぃっ!」
それは、先ほど飛ばされてきた
角が折れ、白目を晒し、だらりと舌を垂らした悲惨な表情のそれが、地面にべちゃりと落ちて女性及びその配下たちを見上げる。
「さあ、
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