第10話 悪魔召喚


 思わず飛び退った俺の前方で、男の影がぞわりと鎌首をもたげるように隆起する。


 光の届かない闇――その奥から、半獣の姿をした人型の怪物が姿を現わす。

 三つ目の犬首にワシの翼、そして棍棒のように極太の両腕は熊のものか。

 複数の獣性を身に宿しながらも、あくまでベースは人間であることを伺わせる、この世のものにあらざる異形。


 奴こそが人類の宿敵にして異界より来訪する化物――悪魔デーモンだ。


 それは地獄の釜から響くような耳障りな声で、口を開く。


「お前の願い、今ここに我が聞き届けた。契約を承認しよう、盟友オズワルドよ。娼婦という存在を一人残らずこの世から抹消することが召喚者としてのお前の望み、ただしその代償として我は汝の血肉を最後の一滴まで呑み干そう」

「構うものか、ああ好きにするが良いさ! 俺の全てを――血も肉も、怨みも憎悪もことごとく持っていけ! それで願いが叶うのなら、こんなくそったれな人生なんて今更どうだっていい!」

「喜べ。我が力を以てすれば、叶わぬことなど何もない。では、さっそく代価を支払ってもらうとしよう――」


 影から出現した悪魔デーモンとは真逆の様相を呈して、オズワルドという名前だった男の身体がそこへ沈んでいく。

 その中では彼の肉体が、精神が……彼を構成していた全てが消化されて、悪魔デーモンがこの世に現界するエネルギーとして再構築されていくのだ。


 口惜しいことに、悪魔との契約は絶対だ。

 成立してしまった以上、部外者がそれを止めることは出来ない。

 俺は拳をキツく握りしめながらも、目の前で行われる食事の光景を見届けることしかできなかった。


「――ふ」


 食事を終えたらしき悪魔デーモンの口が、歪む。


 紳士ぶっていた気配が姿を消し、奴は涎を垂らしながら本性を露わにした。


「ふははははっ、さて久々のこちら側の世界だ! それにしても甘美なるかな人の絶望! 甘く濃密な復讐という蜜の味、なんと素晴らしきことか! 勧められて熟成なるものを試してみたが、なるほどこれは良い! 時間はかかるが、そのぶん凝縮された旨味は従来の比ではない……さて」


 縦に割れた爬虫類の眼が三つ、近くで観察していた俺の方に向けられる。


「貴様、その格好は神に仕える者の一人だな。目覚めて早々お前のようなものを目にすることになるとは不愉快極まりない」

「それはこちらとしても同感だな。まったく面倒なことになったものだ」

「ふははっ、オズワルドの記憶からして貴様は我の邪魔をする輩のようだな。奴は娼婦を殺せと言ったが、それ以外を殺すなとの縛りは受けていない。ふむ、まずは手始めに、我が再来の祝福として貴様の首を狩ってやろうではないか」

「面白いことを言うな、低能な悪魔デーモン風情が」


 俺は奴を見据えながら、拳を構える。


「こちらに来るのは久々と言ったな? となれば前に俺たちに狩られたのだろう。残念だが、今回も狩られるのはお前の方だ」

「強がるな、人間如きが。……戦うつもりのようだが、正気か? 貴様らは聖鐵アークスとやらが無ければ、我らに満足にダメージを与えることが出来ないだろうに。しかし貴様からは、あの嫌な気配が感じられないぞ」

「ほー、よく知っているじゃないか」


 聖鐵アークスとは、特別な工程を踏んで加工された金属のことだ。


 純銀を素材として選ばれしシスターたちが七日七晩祈りを捧げたそれは、正の感情を宿した特殊な属性を帯びる。


 悪魔デーモンを構成する負の感情を打ち消す聖鐵アークスを使った武器は、悪魔デーモン狩りには決して欠かせないとさえ言われている。

 前の同僚だったアイリの持っていた大鎌などが、まさにそれにあたる。


 ――だが、それがなくともやりようはある。


「御忠告痛み入るよ。では、それが正しいかどうか試してみようか」


 相手が人となれば遠慮も必要だったが、悪魔デーモンなら問題あるまい。


 久々に本気で行くとしようか。


「――むっ!?」


 油断している奴さんの意識の隙を狙って、動き出す。


 前へ倒れ込むような、入りを感じさせない動き。

 悪魔デーモンの瞬きにそれを合わせれば、奴は一瞬こちらを見失ったように感じるはずだ。


 気づいた時にはもう遅い。

 胸元に潜り込んでいた俺に、奴は咄嗟に剛腕による力任せの薙ぎ払いを仕掛けてくるが――その力の流れに合わせて、悪魔デーモンの肉体を勢いよく背負い投げる。


「な――がふっ!」


 石畳を粉砕する勢いで地面に叩きつけられた悪魔が、思わず呻く。


 碌に受け身も取れずまともに後頭部を打ち付けた奴の上へ、俺はそのまま馬乗りになった。


 さあ、ここからは現役時代からの俺の黄金パターンだ。


 人の心を弄んだその罪、身体で以て清算してもらおうか――!


「くっ、貴様、この程度で――がっ!」


 思わずこちらを睨みつける悪魔デーモン、その顔面に俺は容赦なく拳を叩き込む。


 当然、一撃だけでは終わらない。


「がっ! ごっ! がっ! ぐっ、き、きさ――がっ! ぐっ! げっ! ……」

「なにか言ったか? 残念だが、よく聞こえないな」

「ふ、ふざっ……ぐっ! げっ! がっ! ごっ! ごふっ! がひっ! ぐぎゅっ! ……」


 殴る、殴る、殴る。


 頬を、額を、前歯を、鼻を。


 殴る、殴る、殴る、殴る、殴る……。


 眉間を、眼球を、顎を、こめかみを……。


 悪魔デーモンの意識を常に俺の打撃で占有して、行動の隙を与えない。


「ぐびゅっ! ぐげっ! ごっ! がぐっ! げっ! えぶっ!」

「……」

「ぐぉっ! あぎゅっ! げがごっ! ごふっ! がひっ! ぐぎゅっ! げっ! えぶっ! ……――」


 聖鐵アークスでなくとも、悪魔デーモンのエネルギーを削ることは出来る。


 効率は悪いが、通常の攻撃によるダメージを蓄積させることでも奴らは顕現に必要なエネルギーをちゃんと消費してくれる。


 後は奴らの終わりが見えるまで、殴り続ければ良い。


「生まれたての悪魔デーモンで、喰った人間の数は一人。となればだいたい、時間にして三時間ほどか。聖鐵アークスがあれば本来は五分もかからないのだが、ないものねだりをしても仕方ない。それまで我が鉄拳を馳走し続けてやろう、おかわりはいくらでもあるぞ? 喜んだらどうだ」

「て、てっけ――うぐふっ! まさかきさっ、ごぎゃっ! ……あの噂の――ぐげりゅっ!」

「ふん、悪魔どもの間でも俺の名は知られているか。だが不思議だな、全然嬉しくない」


 どうせなら教会のシスターたちの間で広まっていて欲しいのだが、無理だろうな。


 最短で神父になるために、以前の俺は悪魔デーモン狩りに全てを費やしていた。

 寝て起きては牛乳と朝食を腹に収めて悪魔デーモンを探し、昼食を食べては悪魔デーモンを探し、夕食を食べては腹ごなしに悪魔デーモンを探し、それからシャワーを浴びて寝ては起きて……を繰り返す日々。


 思い返せば完全にヤバい奴である。

 正気のシスターであればドン引き待ったなしだろう、こん畜生めー!


 そんなことを考えながら、俺は奴をひたすら殴り続け――。


「あ、あっ……あ、あ……」


 やがて悲鳴すら出なくなった悪魔デーモンの身体が、塵になり始める。


 ふと最初にいた時計台の方を見上げれば、殴り始めてから四時間ほどが経過していた。


 ううむ、思ったより時間がかかったな。

 残念なことに身体がなまり始めているようだ。


「仕方ない、また鍛え直すか」


 せっかくだし、エマと一緒に鍛錬するのも良いかもしれないな。


 なにしろあんなに可愛いシスターだ、もしかしたら攫おうと邪念を抱く輩も現れるかもしれないし。


 それに、最低限の自衛能力を身につけてもらうのもそうだが……。

 なにより、一緒に鍛錬した方が俺への親密度アップにも繋がるだろうからな!


「あ、あ、あ……」

「――残念だったな、聖鐵アークスがなくて。あった方が、苦しみも長引かずに済んだだろうに」


 立ち上がって服についた埃を払い、悪魔の消え去る様を見届ける。


 そこに、奴と契約したオズワルドと言う男の身体は残らない。


 悪魔を呼び出した代償として、彼は自分の生きた証を全て失ったのだ。


「だとしても、せめて墓くらいは建てよう。オズワルド君、君の死後に僅かでも安らぎのあらんことを」


 今の俺は暴力装置たる伐魔官リーパーではなく、人々と苦しみを分かち合う神父だ。


 娼婦を何人も殺したのは確かに彼の罪だが、その始まりは両親を理不尽な理由で失ったことである。

 そこで誰かに救いの手を差し伸べられていたなら、きっとこのようなことにはならなかっただろう。


 過去を悔いても何も変わることはないが、それを誰か一人が慰めるくらいは許されるはずだ。


「……行くか」


 犯人は消滅し、この連続殺人事件は終わりを迎えた。


 それを娼婦ギルドに報告するのと、一応は悪魔デーモン絡みであった以上、照魔官イルミネーターにも報告書を提出しなければならない。


 ああ、面倒だ。


 面倒だが……疲れたこの身体を早く我が愛しのシスター、エマたんに癒してもらうためにも、あともうひと踏ん張りだけ頑張ろう。


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