第9話 成されし契約


 それから、何事もなく七日が過ぎて。


 そろそろ新たな被害者が出てもおかしくない八日目の夜、俺は街で領主の館の次に高い時計台の上で待機していた。

 足元では歯車の軋む音が重奏を響かせており、頭の上からは薄く雲のかかった月が朧げな光を落としてきている。

 一見して普段と変わらない、静寂に満ちた暗闇の世界。


 その中にひっそりと息を潜ませる俺は、合図・・を待っていた。


 それは目に見えるものではない。

 瞼を閉じ、耳を澄ませ続けて……ただひたすらに、その時を待つ。


 ――リィン、リィーン……。


「――来たか、犯人め」


 夜闇に響く、澄んだベルの音。


 それが鼓膜を揺らすや否や、俺は身体を空中に投げ出した。


 重力に従いつつ、壁を駆けてその勢いを更に加速させながら、風を切って下へ。


 眼下に広がる、影を落とした街並みの中へと落下していく。


「――しっ!」


 途中でタイミングを見計らい、時計台の壁面を強く蹴って隣の建物へ移る。


 寝ている住民の邪魔にならないよう着地の衝撃を三点着地で殺しながら、勢いをそのままに続く別の建物の屋上へと駆ける。

 夜の闇に溶け込んだ足元だろうと、踏み込みを迷うことはない。

 今日この日のために、周辺の地理は何度も頭に叩き込んだ。


 伐魔官リーパー時代に鍛えあげたそのスキルで以て、俺は全力で疾走する。


 目指すはただ一つ、先ほどベルが鳴らされた娼婦の家・・・・だ。


「――このっ、来ないでよっ!」


 近づくと、闇をつんざく悲鳴が聞こえてくる。

 それは、通りを一つ挟んだ建物の三階、カーテンのはためく、あらかじめ・・・・・お願いしていた通りに・・・・・・・・・・開かれた窓の向こうから。


 その隙間から、月光を受けた凶刃の輝きが見えた。


 ――これ以上、罪なき女性に涙を流させるものか!


「――とぅっ!」


 迷うまでもなく、俺は跳んだ。


 屋根の縁を蹴って、真向かいにある悲鳴の聞こえた部屋へ――そして、その中で今まさに娼婦へ攻撃しようとしていた、黒衣纏う相手目掛けて。


 見敵必殺、まずは初手顔面飛び膝蹴りでも喰らっとけ!


「ごふっ!?」


 外にベランダも何もない窓からの強襲を受けて、相手は何一つ反応出来ないまま、見事に吹っ飛ばされていった。

 どんがらがっしゃん、と派手な物音を立ててその身体は部屋のクローゼットに埋まってしまう。


 不意打ちの直撃、それも確かに顔面を捉えた手応え……いや、足応えがあった。

 恐らくすぐには立ち上がれまい。


 ……なに、神父が急襲からの不意打ちなんて汚いって?


 ははっ、これは単なるいけない子へのサプライズプレゼントだからセーフさ。

 我らが聖書にも、サプライズが駄目なんてどこにも書かれていないのでな!


「さて、無事ですねダリアさん?」

「は、はい神父様! ありがとうございます!」


 俺が到着するまでにひと悶着あったのか、彼女の仕事服ネグリジェは少々汚れてしまっている。

 だが、身体には傷一つないようで良かった。


 彼女の足元には役目を終えたハンドベルが転がっている。

 それは俺が教会の倉庫から引っ張り出してきて彼女らに貸し与えたものだ。


 通常であれば音楽の演奏に使われるものだが、今回は彼女らに危険が迫ったことを知らせるための道具として使わせてもらった。

 用途は違えど、人の命を救うため役立ったのなら彼らも本望だろう。


「よろしい、君はギルドへ避難していなさい。イシューさんたちが待機している、そこでココアでも飲んで心を落ち着けるんだ。いいね?」

「わ、分かりました……神父様、うしろ!」


 パニックを起こしているのか、大げさな素振りで頷く娼婦ダリア。


 そんな彼女が俺の後ろを指さして叫ぶが――問題はない。


「ああ、君の相手は私が務めよう。ひとまずは、場をお移し願おうか!」


 思ったより犯人の身体は丈夫だったようで、数秒も経たないうちに復帰してクローゼットから飛び出し、こちらに襲い掛かってくる。


 だが、背後からの襲撃なんて慣れたものだ。


 足音で既に彼の動きを察知していた俺は、振り返りざまに相手の胸倉を掴み、相手が剣をこの身に届かせるよりも先にその身体を部屋の窓へ向けて一気に投げ飛ばした。


 ひゅーん、とカーテンを巻き込んであっけなく落下していく犯人。


 ここは三階だが、まああれだけ頑丈なら死にはしないだろう。


「襲われたばかりで独りにしてしまうことは申し訳ないが、私は彼を捕まえないといけない。辛いことがあれば後でいくらでも相談に乗ろう。だからギルドで待っていてくれ、吉報と一緒にね――御免!」


 ダリアにそう言い残して、相手を追いかけるべく俺もまた窓から飛び降りる。


 すると、相手は運よく足を捻ったりせずに着地できたようで、既に逃げようと脱兎のごとく駆け出しているではないか。

 とことん身体が丈夫な奴だな――だが、逃がすものか!


 転がるようにして着地の衝撃を逃がし、すぐさま立ち上がって駆け出しながら拳を構える。


 彼我の距離は建物を二軒挟むほどに離れており、一見拳の届く距離ではないように見えるかもしれない。

 それでも、これはまだ俺の距離だ!


「秘拳が六――【撥雲拳天はつうんけんてん】!」


 抉るように撃ち出すは、螺旋を描く正拳突き。

 その一撃は犯人に届くことなく空を切るが――そのまま、神速にしてを穿つ。


 ――どぉん!


 大砲の如く重い音が鳴り響き、それと同時に、犯人が何もない所で突如吹っ飛ぶ。


 【撥雲拳天はつうんけんてん】、それは東方で遠当てと呼称される技術だ。

 大気を殴りつけ、それを飛ばすことで離れた敵に衝撃を届ける技。


 様々な搦め手を使う悪魔デーモンどもに対抗すべく、俺は遠距離までとは行かずとも、中距離戦までには対応できるよう修練を積んでいたのだ。


「威力は弱めたし、死にはしない。だが、それ以外の遠慮はなしだ」


 犯人が立ち上がるより先に距離を詰めた俺は、そのまま犯人の両腿を踏みつけて圧し折った・・・・・


「うぐっ! く、おおお……っ!」


 なにかで縛っても、抜け出されてしまえばお終いだ。

 しかし、こうしてしまえばどう足掻こうと走れなくなる。


 骨折はいずれ治るのだし、動かさなければさほどの痛みもないんだ。

 手早く確実、そして死に至らしめない逮捕手段として、かつては重宝していたものだ。


「……君の凶行もここまでだ。もう逃げられない。これから私は騎士団を呼んで、君は裁判を受け、相応の刑が執行される」

「く、くそっ……!」

「その前になにか言いたいことはあるか? 今更の自己紹介だが、私は神父なんだ。君の内に抱える苦しみを、少しくらいなら和らげてやれるかもしれない」


 目の高さを犯人に合わせ、語り掛ける。


 すると彼は、ぎりっと歯を食いしばらせながらも口を開いた。


「ふざけるな、ふざけるなよ……神父だって? なんであんたみたいのが連中を守ろうとするんだよ。あいつらは人に寄生して生きるしか能がない、あさましい奴らだぞ!」

「中々の言い様だな。ただの恨みではないみたいだが、何故そう思う?」

「なんでかって? はっ、そんなの決まってる――俺の父が、俺たちが、……俺の家族は、奴らに生き血を吸われて死んだからだ!」


 激情を叫ぶとともに、相手の被っていたフードが脱げる。


 月明かりに照らされて初めて見えた、男の顔。

 長らく手入れされていないようで、伸び放題かつ煤けている髪に、頬には無精ひげが生えている。

 そして、その瞳の奥には――暗い復讐の炎が燃え盛っていた。


「父は奴らに入れ込んで性病を移された挙句、それまでに貢ぎ過ぎていたおかげで薬も買えずに死んだ! そして母も後で性病を移されていたことが分かって絶望し、愛していた夫の後を追うように死んだ! たった一人の息子を置いて――俺の家族は、俺の人生はあんな奴らのせいで無茶苦茶になった! それを許せるか!」

「なるほど、それはさぞ無念だったろう。君が怒る理由も分かる。……しかし、それで君が恨むべきはそのお父様が入れ込んでいたという特定の娼婦であって、他大勢の娼婦まで恨むのは筋が通っていないのではないかな?」


 どうやら動機としては、おおよそ俺の想像していた通りのようだ。


 残念なことに、彼の言うようなあくどい稼ぎ方をする娼婦も確かに中にはいるだろう。


 それは他の職業でも同じことだ。

 どうしたって真面目に働くだけでは稼げないこともあり、他者との差別化を図ろうとしてよろしくない手法に手を染めてしまう者はいる。

 それはいつ、どこにでもある人の弱さが為してしまう業なのだ。


 しかし、必ずしも全ての人が己の弱さに呑み込まれてしまうわけではない。


 せめて、それを最後に理解してもらって少しでも反省を促せたら良いなと俺は考えたのだが――それを口にする前に、彼の眼に不穏な輝きがどろりと灯る。


「いいや、奴らは皆同じだよ神父様――汚らわしい、あさましい! おぞましく下劣で救いようのない、触れた者全てを欲望の坩堝へ落とす奈落の化け物! そんな奴らから俺は他の奴らを守ってやってるんだ! 俺は間違ってなどいない、間違っているのは奴らの存在そのもの、あんな奴らが跋扈するのを許している連中だ――くそ、憎い憎い憎い……まだ十人も殺せていないんだぞ……こんなところで、止まれるものか……!」

「まあまあ、落ち着いて……だが、そうか」


 どうやら、彼の心を落ち着かせるにはこの場だけでは時間が足りなそうだ。


 長年積もらせた怨みを解きほぐすには、同じだけ、いやそれ以上の時間をかけるしかない。


 仕方ないが、とりあえず今は気絶させて騎士団に突き出すとしよう。


 そう意識を切り替えた俺の耳が、偶然にも放っておけない言葉を捉える。


「……そうだ、奴ら・・もそう言っていたんだ。俺は間違っていない、俺の考えこそが正しいんだってな!」

「なんだって?」


 ぶつぶつと娼婦への怨念を漏らしていた男の言葉にふと混じった、聞き逃せない言葉。


 ――奴ら、とは誰のことだ?


「あの人たちは、あいつは、皆みんな言ってたんだ。俺のことを分かってくれている。俺が正しいんだ、この世が狂ってるんだ。娼婦なんて、邪魔なものなんて認められちゃならない。この世から消し去ってしまえばいい、そうすべきだ。――ああ、はははっ! 俺はこんなところで終われない! 力が必要だ……もっと、もっと……そうだ、思い出したぞ!」

「すまないが、奴らとは誰の事だ? まさか君をそそのかした奴がいるのか?」


 ただならぬ恩讐の念、それはこの男自身が長年かけて積もらせたものだと思っていたが、もしかしたらそれは違ったのか。


 誰かが手を加え、彼の心の闇をより増幅させたのか――もしそうだとしたら、そいつも放っておくことは出来ない。


 それを聞こうとするも、男は俺の言葉に耳を貸さない。


 光を失った瞳で、男は俺の見えない何かに手を伸ばすが如く声を荒げる。


「あの人たちだけが、お前だけが、俺の気持ちを分かってくれる。お前たちは俺の相談に乗ってくれた、ただ腐って惰性で生きていただけの俺に復讐する力をくれた。俺はまだ諦めない。全ての薄汚い連中に死を! 惨たらしい死を与え、人を貶めた罪をあの世で後悔させてやるんだ! そのための力を、寄こせ――もっと、力を!」

「力を寄こせ……貰い物? ……っち、そういうことか!」


 ……そうか、おかしいと思っていたんだ。


 悪魔デーモンと対抗できる元伐魔官リーパーと張り合うだけの頑丈な肉体。


 それは復讐にかられていたとはいえ、一般人がそう簡単に手に入れられるものではない。


 だが、この世にはそれを簡単に手に入れる手段・・がある。


 ――気づけば、くの字に折ったはずの男の両脚はいつの間にか元通りになっていた。

 並外れた回復力、先の頭への衝撃からすぐさま立ち上がれたのもこれか!

 人間には到底有り得ない力……その正体は。


「おい止めろ、その力は――取り返しがつかなくなるぞ!」


 だが、俺の言葉は間一髪間に合わなかった。


 その契約・・は言葉にせずとも、それを願った時点で為される。


 なぜなら相手は意志を言葉で伝えなければならない人間とは違い、人の精神を喰らうことを生態とする化物だから。


 遠ざかっていたはずの慣れ親しんだ気配が、ぞわりと俺の肌を撫でる。


「仮初の契約じゃ足りない――我、今ここに本契約を欲す! 我が恩讐に応え目覚めよ、毒婦どもを断罪する鉄槌の悪魔・・よ!」


 雲が晴れて、月が姿を見せる。


 鮮明になった男の影に潜む闇が、怪しく蠢いて。


 それが、空に浮かぶものと同じ弓形の凶笑を形作った。



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