第19話

 以前メイドが銅鑼でゾンビを呼んだとき、ゾンビの群れに銅鑼は踏み潰された。その銅鑼の木枠を修復して建て直し、再び銅鑼を鳴らした者がいる。

 ゾンビたちは動きを止め、城壁の上を見上げた。メイドも、地面に伏せながらその音を聞いている。


 博士を襲おうとしていたゾンビも、自分のしようとしていたことをすっかり見失い、他のゾンビと共に音の発生源へ駆け出した。

 広場の中心には三人だけが残った。ゾンビたちの波は引いていき、急に静かになる。


 「なんと……。まだゾンビに成らざる者がいたのか」


 不死王は呟いた。ゾンビたちはしばらく帰ってこないだろう。しかし、それでも問題は無いと思った。状況は何も変わっていない。

 博士は倒れ伏しているメイドへ駈け寄る。身体中から血が流れていた。服はスカートが大きく千切られ、左腕の部分は完全に破け、痛々しい噛み跡の目立つ肌が出ている。


 メイドの肌はいくつもの箇所から緑色が広がっていた。腕、首、脚、腹、大小の噛み傷引っ掻き傷は、その呪いを伝播させる。

 ゾンビ化するのもすぐだろう。博士は、せめてメイドだけでも助けようと、金の針を探した。メイドがまだ持っているはずだ。

 だがスカートのポケットに入っていたものは、青い液体の詰まった瓶だけだった。


 「そこを、動くな」


 不死王は許さない。メイドがゾンビを人間へと変えたところは見ていた。そのような真似は看過できない。

 博士とメイドに近づく。博士は動くことができない。先ほど、メイドに素早い一撃を喰らわせた速度から、この程度の距離は一瞬にして詰められると知っている。


 「ごめん、メイドちゃん……。苦しい思いをさせてしまったね」


 博士は微かに息をするメイドを見て、目を閉じた。






 「じい……?」


 冬が来る前のこと。掃き溜めの底で。

 老人は古びた椅子に座ったまま動かない。暗闇の中で、静かに息を引き取っていた。


 「じい……!」


 幼い少女がいくら呼びかけても、応えない。昨日までは喋っていた。笑っていた。頭を撫でてくれた。

 出会いが突然ならば、別れもまた同じく。少女はかつて、老人が教えてくれたことを思い出す。


 人は、いつか死ぬのだ。


 少女は初めて涙を流した。これまで、いくら辛くても泣いたことはなかったのに。涙は音もなく頬を伝う。

 あの時は意味が分からなかった。だが少女は今、人が死ぬということの意味を知る。


 得たのは悲しみだけではない。彼女は同時に、暖かな形容し難い熱を心の中に抱いていた。

 老人のことを想い、彼が何もできない自分のことを世話してくれた有難さを感じる。笑顔にはなれなかったが、それでも彼と過ごした日々は、幸福だったのだ。

 老人が死んだことで、少女は初めてその幸せに気付いた。今まで感じたことのなかった感情を。失ってから失ったものに気付くなど滑稽だったが、幸せというものはえてしてそういうものだろう。


 少女は老人に、手を合わせた。






 「ま、だ…………」


 不死王は目を見開いた。あり得ざる光景がある。

 傷だらけのメイドは、その身体を立たせていた。白いエプロンは血で汚れ、黒いワンピースはその大部分が破れている。それでも、立っている。


 いくら血を流そうと、肉を裂かれようと、それは立ち上がらない理由にはならない。メイドの心はまだ死んでいない。主人への想いはまだ絶えていない。

 故に立ち続ける。片手でチェーンソーを引きずりながらも、その仄暗い瞳で目の前の敵を睨む。


 「────何故だ。何故、立つ! そのまま寝ていればいい。もう痛みを感じることはなくなる!」


 王は叫んだ。感情を露にするのは珍しいことだった。それほどにメイドのことが気になったのだ。

 メイドの三つ編みが解けていく。長い黒髪が夜風に浮かんだ。


 「私は最後までご主人様のメイドでいる。この願いを諦めることなんてできっこない。あなたも、自分の願いを諦められなかった。そうでしょ?」


 ああ、そうだったな。不死王は心中で合点した。

 不死の研究に幾度行き詰ったか分からない。だがどんな困難にぶつかろうとも、諦めようという気持ちは湧いてこなかった。

 このメイドも同じだ。ただ一つの願いだけを欲し、それを得るためにはどれほど傷つこうとも構わない。夢を追い、夢に生きる者とは、そういう在り方をするものだった。


 「よい。お前はゾンビとなろうとも、永遠にあの男のメイドだ。抵抗は必要ない。苦悩はとく消え去る。今、楽にしてやる」


 不死王は歩みを進める。メイドは博士に、後ろに退くよう手で押しやった。

 放っておいてもメイドはゾンビに成るだろう。だが不死王は、自らの手でゾンビとしてやることを決めた。


 メイドの全身は着々と緑色が広がっている。既に半身分は変色し、メイドは自我を保とうとするだけで精一杯だ。

 本来は立っていることさえおかしい。現在のメイドの姿は、まさにその意志の強さの顕れそのもの。

 闇の底で泣いていた少女は、月と出会い生まれ変わった。自らを弱いと思い込んでいた少女は、実のところ、誰かのために立ち上がる切欠がないだけだった。


 「たとえ、どんなに辛くても。私の月がそこにあるなら、何も怖くはない」


 メイドは、聖なる油瓶の蓋を開ける。落としたはずのそれは、広場に博士が来る直前に見つけて拾っていた。城壁の上で弾かれ、広場の中心まで転がって来ていたらしい。

 不死王は身構えるが、メイドはそれを投げて使うつもりはない。使うのは自分自身、頭から油を注いで被った。


 「何……!?」


 青く広がる炎は、メイドを包み込む。呪いの満ちた緑色の肌を焼いていく。

 ゾンビたちが忌避するその聖炎は、ゾンビ化の呪術にも対抗する。完全な解呪とは至らずとも、その進行を押しとどめることはできた。

 不死王も、その手で燃え盛るメイドに触れることを躊躇った。触れれば炎は、不死王の身体も焼かんと燃え移るだろう。


 (ああ、熱い────)


 炎で炙られた者には強い痛みを与える。この状態のメイドは常に、全身を焼かれる地獄を味わっていた。

 それを、まるで夏の暑い日のように片付ける。メイドは胸元のボタンを引きちぎりながら外し、肌面積を広げた。


 「呪いを浄化する火か……! しかし、それを自らに灯すとは! メイド、お前は…………!」


 「私と一緒に焼かれてください。朝が来るまで、ずっと」


 メイドは青い炎を身に纏ったまま、チェーンソーを振り回して不死王に立ち向かう。不死王は反撃もできずに、攻撃を避けることだけを専念した。

 その重さを御せていなかったはずのメイドのチェーンソーは、鋭く、激しい連続攻撃を不死王に向ける。皮肉にもゾンビ化の進行により膂力が増し、扱えるようになった。

 身体能力が全般的に向上したメイドは、見違えるような動きで不死王を追い詰める。だが不死王は驚きこそすれ焦ってすらいない。


 「長くは持つまい、メイドよ。自らを焼いたとて、そこに続くのは苦しみだけだ」


 男は見抜いている。この炎はいずれ静まることを。ならば、それまで待ってから反撃すればいい。時間をかけるほど不死王が有利になると思われた。

 だがメイドの執念は凄まじい。自分の体力の限界をゾンビ化で無理やり越え、右腕一本でチェーンソーを振り下ろす。


 大振りな攻撃を不死王は余裕をもって躱すも、右手首を熱いものに掴まれた。メイドの左手だ。

 チェーンソーに意識を向けたばかりに、メイドの本当の目的であった左手への対応が遅れた。メイドが狙っていたのは攻撃ではない。


 「ぐぬうううぅ!」


 「言ったでしょう。一緒に焼かれてくださいって……!」


 不死王は手を振り払おうとするも、爪が食い込むほどに握られたメイドの手は離れない。

 メイドの右手のチェーンソーが再び振り下ろされる。今度は至近距離だ。手首を掴まれている以上、不死王はもう避け躱すことはできない。

 仕方なく武器を持つメイドの右手首を、今度は不死王が掴んで止める。これで二人は、互いの手を手で止めて動けなくなった。


 メイドがその身に宿す青い炎が、両者の触れ合った腕を通じて不死王へと流れ込む。全身をゾンビと化している不死王にとって、この聖火はメイドよりもよく効く。

 夜の闇の中、二人は不夜城よりも明るく輝いている。他のゾンビたちは誰一人として近づけない。ただ遠巻きに見ているだけだ。

 博士もまたどうすることもできなかった。炎に巻かれることはないが、メイドがやってくれることを祈る以外に、あの不死王を止める手段を思いつかない。


 「ああああああああぁ…………っ!」


 「おおおおおおおおぉ……!」


 まさに身を焦がすほどの激痛に、メイドも不死王も、組み合ったまま声を上げる。

 互いの肉体的な力は、完全にゾンビ化している不死王が有利なのだが、よく燃えているのもまた不死王の方だ。つまりこの場においては、両者の膂力は互角に近い。

 なれば次は精神的な力を競う番だ。熱に先に音を上げ、体勢を崩した方が負ける。単純にして簡単には決着が付かない勝負だろう。なぜならどちらも、諦めが悪い。


 「メイドよ……。その覚悟、本物のようだな。それほどにあの男を慕っているのか、自分の身体を薪へと変えてもよいと思うほどに」


 「慕って……? そう、ですね。私はご主人様の中に、私が決して持ちえぬ光を見ました。だから、今もその光を頼りにしてここにいます。ご主人様にはこの世界を生きて、照らしてもらわなきゃ……」


 戦いの中であるが、不死王は苦笑した。メイドが自分の発言の意図を誤解していることに気付いたのだ。

 そして、目の前のメイドが、この見た目以上に幼いということにも。


 「……では、もう一つ聞こう。お前は、死のない世界を嫌うか。死にたくない、失いたくないという心持ちは、全ての人間が共有する感情だと思ったのだが」


 「私も……死にたくありません。ご主人様を失うなんて、考えたくもないことです。だけど、死のない世界は……。やっぱり、おかしい。それこそ苦しいだけ」


 メイドは微かに笑った。そして、言葉を続ける。


 「それに私、生きていて楽しいって、幸せだって、そう思えたんです。ご主人様に出会ってから、ずっと。これはきっと、限りがあるからそう思えて、美しいから」


 「────そうか」


 それ以上、不死王は何も言わなかった。

 自らの理想が万人を救うわけではないと、再確認した。死のない世界が救済にはならない者もいる。

 メイドの思想を、不死王は否定しない。だが肯定もしない。自らが創り出す世界がこのメイドにとって救いにならないとしても、その他大勢の救済を、自らの理想を信じて共に来てくれた者たちのために立ち続ける。


 「メイドよ、これで終わりにしよう。その幸福をしかと抱きながら、眠るがよい」


 「っあ……!」


 不死王はメイドの右手首を強く握り、骨を粉砕した。メイドの顔が痛みに歪む。

 拮抗していた力関係は崩れ、不死王の口元が牙をむく。少女の細い首筋に喰らいつこうとしている。


 いくら炎が呪いの進行を抑えようと、呪いの中心たる不死王から噛まれれば、ゾンビ化は一気に達成されることだろう。

 それだけは避けねばならなかった。メイドにもまた、まだ立つべき理由がある。


 「があああああああぁぁっ!!」


 呪詛満ちる牙が穿ったのは、メイドの首ではなく左腕だ。首を庇うため、不死王の腕を掴んでいた手を離し首の代わりに噛ませた。

 不死王の歯は鋭く深くメイドの腕に食い込み、骨まで達する。幸いなことに、左腕の痛覚はゾンビ化により既に鈍くなっていた。それでもなお身体が脳に痛みを伝えるが、叫んで誤魔化す。


 「むうっ!」


 不死王が腕から口を離そうとすると、なんと逆に押し込まれた。メイドの腕の傷口からは呪いを焼く聖火が迸り、そのまま不死王の体内にも入り込む。

 メイドはあくまで不死王をこの場に留めるつもりらしい。そのためには、自分の肉体がどうなろうと構わないようだ。


 不死王は自由になった右手を使い、口からメイドの腕をどけた。メイドの両腕はこれで、どちらも不死王の支配下にある。

 腕を掴まれたままにメイドは腹部を蹴られ、吹き飛ぶと同時に拘束は解かれる。数メートル吹き飛ぶも、まだ終わらない。すぐさま立ち上がる影があった。


 「はあっ……! はあっ……!」


 青い炎に包まれながら、メイドは二の腕をぶら下げてよろめく。左腕は見るからに出血過多であり、右手首はあらぬ方向へと曲がっていた。

 怪我は腕だけではないが、戦う意思は欠けていないらしい。壊れた手首になってもチェーンソーは握っていた。ゾンビ化による治癒能力が働いているようだ。


 王自身も炎の責め苦を受けているが、それよりも酷い相手の状態に不死王は眉をひそめる。

 どれほど傷つこうと立ち上がってくる、本当に不死かのような少女。そんなことはない。彼女は半分ゾンビとなろうとも、まだ痛みも感じ、心臓が止まれば死ぬ存在である。

 だからこそ王は憂慮した。その身に背負うにはあまりにも残酷な苦しみであろうと。一刻も早く解放してやらなくてはいけない。


 「もうよい。それ以上、余の前で血を流すな」


 メイドに向かい、慈悲深き王は一歩を踏み出す。

 聖火から距離を取ろうとはしなかった。メイドに触れ、さらに強い炎が身を焼こうとも、自らの痛みより他者の痛みを取り除くことを優先した。


 「はっ……! ふーっ……! はぁ……」


 当のメイドはもう、息をするだけで限界だった。

 全身の骨が軋む。二度も強烈な殴打を喰らった内臓が叫ぶ。視界の焦点さえロクに合わない。思考が呪詛の進行により白く霧がかっていく。


 (ここで倒れれば、全部楽になるんだろうな……)


 諦めることは簡単だ。この場で膝をつけばいい。身体の全ての痛みは消え、蕩けた自我と共にメイドは、自らの主人と永遠に暮らすことができる。

 だが、その選択はできない。してはならない。それは今日までの努力を無為にし、幸福な明日を捨てる行為だ。

 弱気は一瞬だけの気の迷い。もとより主人を裏切り安らぎを得るつもりなど、微塵もない。


 「よいのだ。意地を張る必要はない。その痛みは、余の世界には不要である」


 不死王がメイドの目の前まで近づき、焼け付いた腕で少女の肌に触れようとする。メイドは一切の身動きがとれない。

 冷たい風が広場に吹きすさぶ。空は未だに暗いまま、黒い雲が空を覆っていた。




 「ぬ…………!」


 男は動きを止めた。腹から、剣の先端が突き出している。


 「遅くなってすまない。今度は私が、君に手を貸す番だ」


 引き抜いた剣に付いた血を、青年は一振りの素振りで落とす。そこにいたのはまぎれもなく、メイドの主人だ。

 薄い月明かりにもその銀髪が光る。赤い瞳は、倒すべき敵を捉えて離さない。


 「────ご主人様!!」

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