第10話

 およそ二十秒ほどだろうか。細く暗い縦穴を、途中のカーブに身体をぶつけてころがりながら落ちていくと、明るい大きな空間が穴の先に見える。

 ゴミ処理場、焼却炉の真上だ。眼下には生ゴミの山とそれらを押し出して壁際の焼却炉に運ぶ機械が動いている。

 このまま落下していけば、焼却炉に押し込まれて灰と消えるゴミと同じ運命を辿るだろう。


 「うぐっ!」


 メイドは寸前で穴から落ちなかった。背中のデッキブラシがつっかえ棒となり穴に引っかかり、メイドを宙づりで固定する。

 それも長くは持たないだろう。メイドの重さでデッキブラシは段々とずり落ち、外れてしまえば真っ逆さまに地獄へ落ちる。


 「こんなとこでっ……死ねない! ご主人様のっ! ために……!」


 このメイドの使命はただ、自らの主人に薬を届けること。この場で最も恐ろしいのは自分の死そのものではない。自分が死ぬことにより薬を届けられず、ご主人様の病が重くなることなのだ。

 もしも懸かっているのが自分の命だけだったら。メイドは恐らく、とっくに生きることを諦めていた。死を恐れながら、生を望みつつ、理不尽な現実に殺されていた。

 昔の話だった。矛盾した仮想だ。彼女は自らの命を、とっくにご主人様に捧げていた。彼女の命は既に彼女のものではなく、故に勝手に死ぬことも許されない。


 デッキブラシが穴から外れる。最後の支えを失い、メイドは腐った地の底へ真っ逆さま。

 メイドが選んだ生存の可能性は、銃を引き抜いて天井へ撃ち込むことだった。


 銃口から伸びたトリモチは煤だらけの天井に張り付き、メイドを落下から救う。ただしこれも時間稼ぎにしかならない。

 いずれトリモチは銃口より切り離される。その前に次の手を打たなければ何も変わらない。


 メイドは咄嗟に、近くの壁に沿って伸びる鉄の手すりと床を見た。焼却炉の掃除などをするために人が処理場へ下りるための通路だ。実際に下りる時に用いる梯子は今、折りたたまれている。

 この状態では向こうの通路に手は届かない。が、トリモチにぶら下がる自分を振り子のように動かせば恐らく届く。窮地を切り抜ける唯一の策だ。

 とはいえ確実に成功するとは限らない。トリモチは一度の振り子運動で千切れるだろう。チャンスは一度きり。失敗すれば命は無い。


 「ご主人様……! 今、行きますからぁ!」


 主人への忠誠を力に、メイドは恐怖を乗り超える。身体を大きく揺らし、トリモチが裂けると同時に左手を高く伸ばした。

 人差し指と中指がぎりぎり通路の床を捉える。急いで右手の銃を仕舞い、両手で床から這いあがろうと試みる。

 しかし、二本の指では一瞬身体を支えるのがやっとだ。メイドが右手を出す前に、左手の指は床から外れてしまった。


 瞬間、メイドの身体が宙を浮く。何物の支えもなくなり、指先が鉄の板から遠ざかる。

 焼却炉から送り込まれる熱風が下方から吹き上がり、スカートが空気を孕んでクラゲのように形を成す。


 「っせい!」


 最後の最後まで、メイドは諦めない。天に突き出した右手は確かに、折りたたまれた梯子の最終段を掴めた。

 伸びきった足の爪先より下では巨大な鉄の壁がせり出し、ゴミの山を次々に炉へ押し込んでいる。距離が近づいたことで、ゴミの焼けるニオイと熱波が身体を蝕み始めた。

 緊張と暑さで全身から汗を流しながら、メイドは梯子を上る。なんとか通路まで這い上がると、大の字になって床に寝ころんだ。


 「し、死ぬかと思った……」


 九死に一生を得るとは、まさにこのことだろう。メイドは今生きている幸福と幸運を噛みしめ、よろめきながら手すりを掴んで立ち上がる。

 休んでいる暇もない。こうしている間にも、ご主人様が病に苦しんでいるかもしれない。あの工場長の部屋で見たご主人様は、苦し気な顔をしていた。

 ポーチの中の薬箱の重さを、今一度確かめる。この重さ以上に重いものを運んでいるのだと、メイドは自分を𠮟咤する。


 「あの人の目の前で漏らしちゃった……。恥ずかしい……」


 今更ながらに、恐怖で凍っていた感情が溶け出す。同時にどっと疲れが押し寄せた。今まで全て我慢し、無視し続けたものだ。

 ほんのひと時の休息を得ただけでもう動けなくなる。肉体が慣れぬ運動に悲鳴を上げ、これ以上酷使するなと叫ぶ。立つ必要は無い、ここで寝ていろと要求する。

 それらは全て迷いだ。自分の弱さだ。メイドは、ここで立たなくては自分が生きている意味すらないと確信している。


 まっすぐに、通路を伝って焼却炉とは反対の壁側に移動する。この空間に存在する唯一の扉、恐らくは地上への出入り口だ。

 錆と煤で汚れた鉄の扉。幸いに鍵は掛かっていなかった。全身で扉を押し開け、薄暗い道を進む。


 壁際の電灯は点滅し、ガのような蟲がチラチラと動いている。天井の隅にはクモが巣を張り、床は埃と何かがこびりついたシミとでまだら模様を描く。

 天井には太いパイプや細いパイプが植物の根のように張って伸びている。そのうちの一つから、点々と水滴が垂れて床に落ちる。床はそこだけ濡れていた。

 この通路が普段使われていないことは明らかだった。故に掃除も行き届いていない、メイドは職業柄、それが気になって仕方がない。


 トンネルのような通路は一本道ではなく、途中にいくつかの分岐がある。しかし、どちらを進めば正しく地上に出られるのか、メイドには知る由もなかった。

 通路の案内などの掲示はない。正確には床に矢印と文字が書かれているのだが、それも汚れで見えない。自分の運の悪さから、適当に進んでもまず出られないだろうとメイドは困惑した。


 「やだなぁ、埃っぽい……。そうだ!」


 メイドはスカートのポケットから、紙の包みを取り出した。中には屋敷の風呂掃除の時に貰ったままの洗剤が入っている。

 それを汚れた床に撒くと、今度は背中のデッキブラシを取り出す。パイプから漏れる水滴で濡らし、床を擦り始めた。泡はみるみるうちに床全体に広がっていく。

 いかに頑固な汚れといえども、博士特製の洗剤には勝てない。泡は汚れを床から引き剥がし、その泡自身を黒く染め上げるも、通路の床は往年の美しさを取り戻す。


 「あ、今度は泡で床が見えなくなっちゃったなぁ……。うーん、じゃあこうするか。えい!」


 黒い泡の海の前で立ち尽くしたメイドは、デッキブラシのブラシに近い部分を持ち、その長い柄で天井のパイプをつついた。

 元から小さな穴が開いており、そこから水を垂らしていたパイプは、デッキブラシの攻撃を受けさらに穴を広げる。水がちょろちょろと、出の悪い蛇口のように吐き出された。


 水たまりは洗剤を洗い流し、床に書かれた文字が顔を覗かせる。

 『三百メートル先、地上出入口』

 分岐は、曲がるのが正解だったようだ。メイドは安心し、その道順に沿って歩いた。




 地上へと続く扉の前の階段を上っていると、扉の前に一匹のネズミが現れた。

 何度か話したあのネズミと同じ、二足歩行のネズミだ。


 「よう。手助けが要るかと思ったが、自分でできるんだな。あの怒り狂った彼女に殺されずに済むなんて、運も良いじゃないか」


 「全っ然、良くない!」


 メイドは階下からネズミに言葉を返す。


 「だがよ、この先は大工場のすぐ傍だ。工業地区から脱出するにはまだ遠い。さらに、工場長はお前が生きていることに気付いてる。すぐに捕まえに来るぞ」


 (大工場……あのおっきな建物のことかな)


 工場長に見つかってしまえば、今度こそ命は無い。逃げようにも逃げられず、どうしようもない。メイドの身体がまた恐怖で震え始める。


 「これは僅かだが、俺からのプレゼントだ。工場長には無意味だが、ゾンビを混乱させる力はある」


 ネズミは、隣に置いていた二本のガラス瓶を持ち上げて目の前に置いた。メイドは階段を上ってそれらを手に取る。

 中には青い液体が詰まっている。ネズミからすれば両手で抱えて持ち上げる大きさでも、メイドからすれば片手にすっぽりと収まるほどの小さなもの。


 「なに、これ?」


 「聖なる油、らしい。人体には無害だが、呪いに汚染されたものにかけると途端に燃えだす。おっと、実際に燃えてるわけじゃない。呪いを中和してるんだが、それが燃えているように見えるんだ。ゾンビにぶつければ火を噴いて、逃げ出すぞ」


 その言が真実ならば、とても心強い道具になる。メイドはネズミをそっと手のひらの上に乗せ持ち上げ、礼を言う。


 「ありがとう、ネズミさん……。こんなもの、どこから持ってきたの?」


 「ふん、お前は気にするな。これはほんのお返しだ。早く行け、小娘! 工場長がお前を見つける前に、早く!」


 メイドは頷き、地上への扉の前に立つ。地面に降ろされたネズミは、メイドの背中に声をかける。


 「……ああそれと、あまり誤解しないで欲しい。あいつは、本当は優しいやつなんだ。大馬鹿で乱暴だけど、人情がある」


 (や、優しい……?)


 その言葉の意味はよく分からなかったが、メイドは扉を開ける。

 いや、開けようとした。


 しかし扉はメイドが腕で押し開ける前に、ひとりでに開いた。

 反対側から引かれて。


 「あ」


 その声は、工場長とメイドの両方から出たものだ。

 地上からの月明かりは工場長の後光となり、メイドの目には影しか映らない。

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