第9話
メイドが非常口の扉を開けると、そこは通路ではなく小部屋だった。向かいには階段、通常用いるであろう道。左手の方には大きな両面開きの扉が鎮座している。
これ以上の階へと進む道は無い。ここが最上階だ。工業地区で最も目立つ、最も大きい建物の、最も高い場所だった。
扉はとても大きい。鉄でできていると思われるその大扉は、片面が少し開いている。
メイドがそこから部屋の中を覗くと、そこには巨体の作業服を着た女性と、比較すると小さく見える銀髪の青年がいた。
「ごしゅ────!」
思わず口から出そうになった言葉を、メイドは自分の両手を使って抑え込む。
彼女らは会話をしている。そして青年は片膝をついていた。メイドとして、主人の話を邪魔するわけにはいかない。
「工場長……。君が、今回の騒動の原因ではないのか?」
「だから、違うって言ってんじゃないか。そりゃま、ゾンビってのは便利だからね。こうして使わせてもらってるけどさ」
工場長と呼ばれた赤髪の女性は、とにかく大きい。縦にも横にも、あれほどサイズの大きい人間は見たことがない。
印象は、怪獣。大きな体に大きな顔。ばっちり開いた両眼、にたりと笑う口元。メイドは、自分の細い身体程度なら、あの両手で簡単にへし折られそうだと思った。
「ゾンビは寝ない、疲れない! 不眠不休で働く最高の労働力さね! 強いて言やぁ、ちょっと目が悪いってのとあんまり難しいことはできないのが難点だけどねぇ。でも、ただ工場で働かせるだけなら十分ってもんさ! だろ、あんた?」
銀髪の男は、苦しそうな顔で膝をついている。工場長が近寄って来ても、一歩も動くことはなかった。
「……では、君は街がゾンビで溢れかえってもいいと? そのうち、まともに生きる者は一人としていなくなるぞ。できれば、解決に協力して欲しい」
「悪いね。そいつぁできない相談ってやつだ。ウチは商売やってる訳じゃない、このアルラトがどうなろうと知ったこっちゃないし、ウチはウチの願いだけ叶えばそれでいいのさ」
巨体が大きな足音を立てながら、男の前に立つ。そして、ゆっくりと丸太以上に太い腕が伸びた。
「じゃ、邪魔者のあんたにもゾンビになって貰おうかな? ウチ、あんたのことは嫌いじゃないんだよ。美形だしさぁ!」
「残念だよ、工場長。君なら話が分かるかと思ったんだが」
男の顔に一筋の汗が流れる。身体が重く、思うように動かないのだ。
この場から逃げる算段を立ててはいるが、工場長はこの距離から獲物を逃すようなことはしない。せめて薬があれば逃げられただろうにと男は悔いる。
せめて最後まで足掻いて見せようと、左腰の細剣に手をかけた。おそらくは無駄な、数瞬の延命に過ぎぬとしても。少しの可能性でも試す価値はある。
自分はアルラトに住む貴族である。無辜の民を守るのは当然の責務だ。今も昔も変わらぬ信念を胸に、迫る脅威に対して機会を窺う、
勝機は一瞬だ。工場長の腕を切りつけて怯ませる。その隙に、自分の背後にある窓から飛び出し、壁を走りながらこの地区から逃げる。それだけだ。
腕を伸ばす工場長と剣の持ち手に手を添える青年。二人の緊迫した瞬間は、突如として鳴り響いた破砕音によって破壊された。
工場長は咄嗟に扉の方に顔を向ける。青年が入って来た扉が半開きのままだ。
「だぁれだぁ!? そこにいんのはぁ!?」
窓が揺れて割れるかと思うほどの声量で、工場長は扉の向こうにいる人物に怒号を浴びせる。
無断で会話を盗み聞かれたこと、無断で敷地内に立ち入っていること、ここぞという場面を邪魔されたこと全てに怒っている。
(ひぃ!! 馬鹿馬鹿、なにやってんの私!? でもこうしないとご主人様が……、ああもう! 仕方ないじゃん!)
扉の向こうで、メイドは汗をかきながら動揺しつつも、どこから逃げるかを考えた。
足元には粉砕された陶片が転がっている。甕で陶器を割ってしまった時に、回収していたものだ。先ほどは咄嗟にこれを落として割り、注意を引いたのだ。
そして、それとは違うガラスが割れる音が響いた。割ったのはメイドでも工場長でもない。
「クソがぁ! 逃がしちまったじゃねぇかぁ! そこにいんのはあいつの仲間か!? よくもやってくれたな、コンチキショウッ!!」
目はつり上がり開いた口からは牙が覗く。まさに鬼のような形相で、怪獣が扉目掛けて突進してくる。
メイドはすぐさま大扉から離れ、非常口へと駆け込む。
轟音と共に大扉は吹き飛んで壁に衝突した。見れば、工場長の体当たりでひしゃげ、蝶番は完全に壊れている。
もしメイドの行動が遅ければ、今頃は鉄の扉と壁に挟まれていたことは想像に難くない。脆い人間の身体は、簡単に潰れるだろう。
「ひいっ! ひいっ!」
心臓の鼓動が死の恐怖に高鳴り、メイドは急ごうとするあまりに四つん這いになりかけた前のめりな姿勢で走り出す。
非常口の外は、今まで通って来た細い足場の階段しかない。後ろを振り返ることもできずに、最初の階段の踊り場まで一気に下る。
「あんたかああああああぁぁぁ!?」
「ぎゃーっ!!」
真後ろから響く咆哮で驚き、メイドはうっかり踊り場から身を投げてしまう。
工場長は恐るべき速さで既にメイドに迫っていた。だがその両腕はメイドを掴むことができずに、空を抱いた。
(ひやっ! 空っ! 高いっ!)
風がメイドの三つ編みを持ち上げる。このまま落下すれば間違いなく死ぬ。
メイドは自分の生を求めるように、藁を掴む気持ちで手を伸ばす。それは幸運なのか、建物の壁に張った細いパイプを捕らえた。
しかしパイプはその衝撃に耐えきれず、ペキペキと壁から外れて、枯れていく植物のように首を垂れる。メイドも同じくして高度を下げて行き、このままでは落ちるとまた別のパイプを掴んだ。
そのパイプもメイドの命綱にはならなかった。メイドは自分の手にかいた汗ですべり、また壁に沿って落ちていく。
「ぎゃああ~っ!?」
窓枠にかけた手がはずれ、換気扇に尻もちをつき転がり落ち、ライトにしがみついてはライトの根元が外れ、メイドの本意ではなくとも、するすると拍子よく地上へ近づいていった。
対して工場長も、呑気に上から見下ろしているだけではない。腰元のロープのフックを非常階段の踊り場の手すりに引っかけると、勢いよく飛び降りる。
一定の長さで伸びるのを止めたロープは、工場長を宙づりにした。建物の中腹程度の高度まで一気に降りてきた。ここから少しづつロープを緩め、地上へ下りれば良い。
フックは丈夫だった。しかし、工場長の体重に階段の手すりが耐えられない。工場長が宙づりになった衝撃と共に鉄の手すりが歪んで折れ曲がり、彼女と共に落下を始める。
二人が地面に着地したのは、ほとんど同時だ。
片や壁を転がるように地面に背を打ち、片や両の脚で力強く土を踏みしめた。
非常に重量のあるものが出す、心臓にまで響くような地響き。その後に、カランと軽い音が聞こえた。折れ曲がった鉄の手すりだ。
「かあああああぁぁぁぁ……!」
工場長はその大きな口から、白い息を吐き出した。
それは機械が生み出す排気ガスのようでもあり、メイドの目には、火すら噴き出したようにも錯覚する。
「ば、ばけものぉ!」
「逃がさないよ、あんたはぁ!」
顔や手足に血管が浮き出て、赤い髪の毛は逆立っている。およそメイドと同じ性別の人間とは思えぬその怪物は、ゴム底のブーツで思い切り目の前に一歩を踏み出した。
怯えながらもメイドは、必死に助かる道を探す。先ほどは使うどころではなかった、博士から貰ったものを思い出した。
メイドは左の腰から銃を取り出し、よく狙いをつける時間もないままに引き金を引く。白い糸束は工場長のやや斜め上を掠めるも、重力により落下し無事に着弾する。
「なんだい、これぇ?」
その効果を確認する間もなく、メイドは一目散に敵に背を向け走り出した。主人がこの場を去った以上、留まる理由は無い。
走って、走って、走って。工場の間の道を走り、角を何回か曲がり、転がっていた機械部品に何度か躓きながらも、必死に工業地区の外を目指す。
「小細工ぅ!」
人の域を超えたゾンビの怪力すら抑え込む白い拘束を、工場長は一息に破壊した。トリモチはあえなく裂け、ただその千切れた糸だけが身体にしがみつく。
メイドの逃走など児戯だ。怪物の一歩はメイドのそれよりも遥かに重く、遠い。そして足取りに一切の迷いなく、対象までの最短ルートを走り抜ける。
通り道のことなどお構いなし。道中の工場の壁や機械などの障害物は全て、巨体の体当たりにより吹き飛ばされた。何者にも怪物の足を止めることなどできない。
「嘘っ! もうそこまで来てるっ! は、速すぎっ! やだぁ!」
もう逃げ場のない、行き止まりまで追いつめられた。だが敵とはまだ少しの距離がある。メイドはもう一度射撃の準備をした。
彼女が銃を構えると、工場長の方はフック付きロープを片手で腰から引きずり出し、大きく回転させるように振るった。
同じ手は二度は通用しない。発射されたトリモチは、工場長が振り回すロープにより器用に防御され弾かれる。
「そんなの、ありぃ!?」
メイドの体力は既に限界だった。全力で走り、肺が痛くなるほどに息を吐いた。工場長を止めるため、背中のデッキブラシに手を伸ばすも、緩慢な動きでは間に合わない。
工場長のロープは回転速度を上げられ、そして思い切り、何の躊躇いも無しに持ち主の手から飛び出す。
鈍く、重く、大きな音が一帯に轟いた。
メイドの真横、左腕のすぐ近くの工場の壁を、ロープの先端に括り付けられたフックが穿ち貫いている。
仮にメイドに当たっていれば、その弱い命は一瞬にして散ったことだろう。メイドは竦み上がり、もう口を開けたまま震えることしかできない。
怪物の攻撃は運よくメイドから逸れたのか。いや違う。
これが意図して外された一撃であったことは、狙われたメイドにも分かることだった。
工場長は動けない獲物に対して近寄って、手を伸ばした。大きな怪物の手は、存外優しくメイドの胴体を掴み持ち上げる。
「逃げられるとでも、思ったかぁ?」
互いの顔がぶつかるほどに接近し、工場長はメイドに対して威圧した。メイドはただ涙を流し、震え、恐怖で息をすることさえままならない。
「何とか言ったらどうなんだい? あんた、誰だ? その服、あの男に仕えるメイドなのかい?」
「あっ、ひっ、はあっ」
メイドの声は言葉にならない。嗚咽のような、悲鳴のような、鼻水で鼻が詰まった音しか出てこない。
工場長は困った。これでは、この女からは何も聞き出せないと。
だが数秒考えた後、それでもいいかという結論に至った。あの男を無理に追う必要は無い。
最悪、屋敷の主人がこの事件を解決しようと、それはそれで以前に戻るだけだ。事態はどう転んでもいい。それに合わせた行動を取るだけなのだ。
「ん?」
妙なニオイがする。工場長は片手でメイドを持ち上げたまま、そのスカートを捲る。
メイドの白い下着から太腿、ソックスにかけて液体が垂れていた。
「怖くってチビッたのか、あんた。汚いね。それでもメイドか?」
「うっ、うう……」
死の恐怖で、メイドは恥ずかしさすら感じない。無意識のうちに失禁してしまった。
工場長はそんなメイドを運んで歩き始めた。今度はゆっくり、何やら蓋のついた壁まで移動する。
「あんたはゾンビにもしてやんないよ。ションベン漏らすガキは、ゴミ箱行きさね。さっさと焼かれちまいな」
壁の蓋が開き、暗い穴が現れる。奥からはごうごうと空気が震えるような音が聞こえた。
メイドが無造作に突っ込まれた壁の穴は、ダストシュートだ。可燃物を処理するためのもので、この道は工業地区の地下焼却場へと繋がっている。
メイドは落ちていく最中、唯一光が射すダストシュートの蓋が閉まっていくのを見ることしかできなかった。
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