第8話
風が強い。下を見れば自分が落ちそうに錯覚し、足が竦む。
夜景は綺麗であったが、工場の吐き出す煙によりよく見えない。
メイドは建物の外側の壁に備え付けられた非常用通路を歩いていた。
建物内と違い誰もおらず、安全に移動できる。だが目的の人物を捜し続けているも未だ見つからない。
地上一階からどれほど上っただろうか。メイドは、階段を上った先にあった扉を開け、中に入った。
扉の先は通路が続いている。通路の脇には木箱などが重ねておいてあるが誰もいない。静かで寂れていた。
壁に貼られたポスターには『命令遵守 労働来福』と書かれており、招き猫のような絵が描いてある。
(ちょっと疲れたな……)
かれこれ一時間以上は工業地区を歩き続け、慣れない場所でゾンビを警戒しながら主人を捜すことにメイドは疲労を感じた。
通路に繋がっている扉の一つを、そっと押し開けた。中には誰もいない。
どうやら倉庫のようだ。物が置かれた棚が並び、少し埃っぽいが休めるだろう。
メイドは適当な木箱の上に腰を下ろした。電気はついていない。窓から月光だけが差し込む。
「ふぅ……。ご主人様、いないのかな」
手がかりの無い旅は、自分の行いが無意味ではないのかという疑念を生む。
手持無沙汰になり、隣の棚に置いてあった升のような木箱を手に取ってみる。
中にはサイコロが一つ入っており、箱の側面には『幸運判定機 六に近いほど幸福な一日になるでしょう』と書かれていた。
何の気なしにサイコロを転がしてみる。ただの遊び、軽い気持ちだ。
サイコロは升の中を回転しぶつかり跳ね返り、最後に一の目をメイドに見せた。
「う……」
試してみてしまったことに後悔しながらも、メイドは升を棚に戻そうとする。すると、升の側面に各出目ごとにコメントが付いていることを見つけた。
もしかすると励ましの言葉でも書いてあるのかもしれない。メイドは升を手元に戻しそれを読んでみる。
『一の出目のあなた 今日は最低最悪の日です。ともすると命を落とすかも。今日が人生最後の日だと覚悟して、よい一日をお過ごしください。ラッキーアイテムは☆チェーンソー☆』
「残酷!」
予想とは真逆の、励ましの欠片もない言葉に動揺し升がメイドの手から離れて床に転がる。
すると、途端に升が不自然に停止した。どうしたのだろうとメイドが注視すると、升の後ろから灰色のネズミが顔を覗かせた。
「おい、不運だったからって物に当たるなよ。危険だろ」
「え、あ、ごめん……なさい」
そのネズミは、少し前に彼女が助けてあげたネズミと同じ個体のように見えた。やはり二足歩行で、片手で升を押さえもたれかかっている。
メイドが床の升とサイコロを回収し、今度こそ棚に戻そうとする。
(……いや、もう一度だけ)
彼女は棚に升を置こうとする手を再び引っ込めて、サイコロを持ち上げた。
悪い出目が出たまま終えては気分が悪い。もう一度サイコロを振り直すことで、偽りでも幸運な気分になりたかった。
「無駄だ。一度振って目が出た以上、今日一日は何度振っても同じだぞ」
「うっ」
足元のネズミが跳躍し、メイドと同じ木箱の隅に腰かける。そして、ネズミにしてはシブイ声で彼女に語り掛けた。
「運勢のツイてるツイてないってのは、人それぞれだが……。なに、ツイてないからって自分を誤魔化そうとしたりするなよ。別に運だけが人生じゃねぇんだ。それに、明日には運が良くなることだってあり得る。もっともお前は、今日最高にツイてなさそうだけどよ。ま、一回寝て、また明日の人生を生きるんだな」
メイドはネズミに慰められ、なんだか惨めな気持ちになった。
嬉しくはあったのだが、同時に、ネズミになんか慰められてしまう自分が嫌になってくるのだ。
「……別に、運は悪くないし。仮に悪いとしても、それはある分を既に使ってるだけだし。生まれた時から運が悪いとか、全然そういうことじゃないから」
「なんだ、どういうことだ?」
「私、今生きてる。ご主人様に拾われて、今日まで。運が悪かったらとっくに死んでる」
彼女は、自らの過去を思い返す。
居住地区の端、貧民窟で誰が親とも分からぬままに生まれた彼女は、天涯孤独の身だった。
雨風を凌ぐ家もない暮らしを、一日の食事の確保さえままならぬ生活を、これまでずっと経験してきた。怪我をしても医者はおらず、信じられる仲間も無く、唯一の友は下水を這う蟲ぐらいのものだ。
友ではないが、そんな彼女を世話してくれた奇特な者がいた。老いた男は貧民窟で生きようと足掻く彼女を見て、あれこれと生きる術を教えた。
古い話だ。もう記憶の彼方にしかない郷愁だったが、忘れることはないだろう。
彼女は自分の年齢さえ分からない。ゴミの山を漁り残飯を求め、酔っ払いか気が狂った住人から逃げまわる。何年そんな生き方をしただろう。十数年か二十年弱か、それとも二十は超えているか。何の記憶も記録もない。
そのような年月を生きられたのは、間違いなく老人のお陰だった。汚泥を啜るような毎日だったが、それでも死にたくなかった。欠片も楽しくない人生だとしても、終えたくはない。
ある冬の日。その年はそよ風吹く地に、雹が舞った。雪は嵐に交じって吹雪となり、農耕地を白く染め上げ居住地区を凍らせた。
貧民窟では大勢が死んだ。食糧を得る手段が乏しくなったうえに、ほとんどの住人は極寒に耐え切れなかった。こんなことはこれまでになかったのだ。備えなどあるはずもない。
まだ三つ編みでなかった彼女もまた、寒さに震えていた。倒れた死体から布を剥ぎ取り、自分の身体に何重にも巻き付ける。
しかし一向に温かくはならない。布は凍っている。その凍ったボロの下の彼女は上半身裸だ。着るものすら燃やし、火に変えた。その火もとうに消えて久しい。
雪に埋もれながら、彼女は自らの心臓の音だけを聞いた。少しづつ弱っていく音は、自分の命の火も消えゆくことを実感した。それでも死にたくはなかった。
貧民窟の奥から、居住地区へと歩き出す。そちらなら生きている人もいるだろう。いつものように物を乞い、パンのひと欠片でも恵んでもらおう。雪が降り始めてから、一度もそれが叶ったことはないのだが。
歩き出した足は、いつの間にか止まっていた。身体は雪に沈み、顔も固まっている。もう、通りまで進む体力すら残っていなかった。
身体は芯まで冷え切り、吐き出す息も白くすらならない。目を閉じることすらできぬまま、眩しいような白さの雪の上で死を待った。
足音が聞こえたのはその時だ。複数人と思われる雪を踏む音が、雹を運ぶ風の音に紛れて聞こえる。
初めに、一人のメイドが彼女に近づいた。金髪のそのメイドは、彼女の上体を起こしてまだ息をしていることを確認する。そして自らがメイド服の上に羽織っていた毛皮を脱ぎ、彼女の凍った布を取り上げて代わりに被せた。
金髪のメイドが何かを叫ぶと、居住地区への道から、銀髪の青年とお付きのメイドが歩き寄って来る。これからのことは、凍り付いた彼女の脳でもはっきりと覚えていた。
青年は、裸に毛皮を着ただけの貧相な女と視線を合わせるように跪き、懐から銀色の筒を取り出した。筒からは湯気を出す液体がカップに注がれ、飲むように促される。
彼女はただ震えることしかできない。既に腕すら満足に動かせなかった。それを察した青年は、カップをゆっくりと彼女の口元へ運ぶ。
拙く、いくらか零しながらも彼女はそれを飲み切った。青年が二杯目を注ぐと、それもすぐに空の胃に注いだ。
涙が頬を伝う。これほどに温かく、美味しいものを今まで口にしたことがなかった。それはただ、スープの味のことだけではない。自らに施してくれる男の真心だった。
そしてその日に、彼女は自分の人生を目の前の男に捧げることを約束した。
「そう、ご主人様……。私の希望、私の光、私の神。早く行かなくちゃ、捜さなくちゃ……」
メイドは木箱から立ち上がった。こんなところで遊んでいる場合ではない。
「お前、その格好。メイドなんだな? 随分と主人想いなことだ」
ネズミが、部屋の扉に手をかけるメイドの背に声をかける。
「こんな場所にメイドなんて変だと思ったが、主人を捜しているのか。ならいいことを教えてやろう。珍しい恰好をした人間が、工場長の部屋に向かっているのを知っているぞ」
「なにそれ、もしかしてご主人様!?」
メイドが振り向くと、ネズミに駆け寄ってその胴体を掴んだ。
ネズミは揺すられながら頷いた。
「痛い痛い触るな! お前の主人かは知らん。だが、赤い装束をした銀の髪の男だった。そいつは工場長の部屋、つまりこの建物の最上階を目指しているようだ」
「ご主人様だ!」
今、最も知りたいことを教えて貰い、メイドの顔がぱっと明るくなる。
最上階ということはつまり、今いる場所のもう少し上に行けばいい。ネズミを握った手を離すと、メイドは一目散にこの倉庫から走り出た。
「……やれやれ、とんだお転婆だな」
ネズミは部屋の隅の、通風孔を開けて中に入る。
彼にとって、人間たちがゾンビに置き換わろうとどうでもいいことだった。しかしながら、借りがあるメイドを助けるぐらいはしてもいいと考える。
どうにも放っておけない。
ネズミは苦笑した。出会ったばかりの相手に、まるで親のような気持を抱いた自分に対して。
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