第6話
丘の上の研究所にはまだ、ゾンビの気配はない。
博士は自分の研究室で本を読みこんでいた。呪術に関する本だ。
そこへ、メイドが入って来た。メイド服は擦り傷だらけで、顔には切り傷が入って血が流れている。
「メイドちゃん!? どうしたんだ君!」
博士は駈け寄り、すぐに医療箱を取り出す。だがメイドは治療を拒否した。
「だ、大丈夫です博士。こ、これはガラスでちょっと切っただけですから!」
「まあそう言うな。消毒ぐらいしてやるから……ほら、顔も拭いとけ」
脱脂綿に消毒液を染み込ませ、それをピンセットで摘んでメイドの傷口に当てる。博士はさらに濡らしたタオルも用意し、汚れたメイドを綺麗にした。
メイドは座りながらそれを受け入れ、持ってきたデッキブラシをそっと壁に立てかける。
「君が無事だとはね。予想外だったが嬉しいよ。ここも正直安全とは言い難いが、まあゆっくりしていけ」
「あのっ! 博士、どうなってるんですかこれ!? 私、屋敷への帰り道で気絶しちゃったのか、気が付いたら夜でこんな有様に……。屋敷ももう駄目なんです。みんなみんな、ゾンビになっちゃいました!」
言いたいこと聞きたいことが多く、メイドはとにかく質問を博士にぶつけた。
ゾンビなる怪物が街を跋扈するなど、常識では考えられない。真実を聞きたかった。そして、希望のある返事を聞いて安心したかった。
「ゾンビ。いやはや私も驚きだよ、こんな伝説上の存在が急に出てくるなんてね。ええと、動く死体なんて伝承が一般的なゾンビの在り方だろうが、この街をうろついているのは少し違うな」
博士は部屋を歩きながら話し始める。
「私は昼過ぎにゾンビが出現して以降、その研究を最優先で進めてきた。その中でいくつか分かったことがある。まず第一に、彼らは死体ではない。まだ生きているんだ」
「い、生きている……? でも肌は緑色で……とても、正気には思えません」
「ああ。生きてはいるが、その理性は失っているようだ。本来人間が自分の肉体を壊さぬように制限しているような筋力を、ゾンビたちはお構いなしに振るってくる。会話も全く通じていない」
机の上に置いてあった白いマグカップ。中に入ったコーヒーを博士は啜った。
すっかり冷たくなっている黒い汁は、苦みを舌に伝える。
「同時に、彼らは超常的な回復能力を持っている。多少の傷は瞬く間に塞がってしまうようだ。……いいやそんなことはいい。私が言いたいのは、まだ希望はあるということだよ」
「どういうことですか博士?」
「彼らを元に戻せるかもしれない」
メイドは目を見開く。
「本当ですか!?」
「ああ、興奮するな。まだ確定じゃないし今すぐにはできない。ただ、このゾンビというもの……どうやら、呪術的な細工が施されている」
博士が先ほどまで読んでいた本を取り上げ、ページを開く。
そこには古今東西の呪法とその対処の仕方まで簡潔に載っていた。
「それが分かれば対策のしようもある。呪術により人がゾンビと化すならば、その繋がりを断てばいい。呪術の影響を遮断することができれば、ゾンビは元の人間に戻るはずだ」
ゾンビ化やその解決法は本には載っていない。つまり、未知の呪法である。
その影響を遮断すると簡単に言ったものの、博士はまだ呪術の分析に時間が掛かると想定していた。
「私がゾンビ化を解除する道具を作るまで、メイドちゃんはここにいたまえ。屋敷はもう襲われたか。早かったな」
「あ、いえその、お屋敷は襲われたんじゃないんです……!」
白衣の科学者は片眉を吊り上げる。それはどういう意味なのかと問うている。
「誰も噛まれていないはずなのに、急に他のメイドさんたちが、ゾ、ゾンビになっちゃって……。本当です!」
「なんだそれは。噛まれていなくてもゾンビになると? どういうことだ、もっと詳しく聞かせろ」
「は、はいっ! ええと、メイド長が昼から具合を悪くしていると言っていて……。それから一時間後、ぐらいですか? お腹が熱いって言ってその、倒れて。他の皆はもうゾンビになってて……」
思案する。科学者は貴重な事例を聞き、その原因を考える。
引っかかっていたものはあった。それは、“最初”のゾンビはどこからやって来たのか、ということ。
人を噛んでゾンビが増えるなら、その始まりはどこだ?
他のゾンビに噛まれる以外の、何らかの方法でゾンビは発生する。それは呪術と何ら関係のないあの屋敷でも起こり得ることだった。
答えは近いが、もう少し考える必要がある。博士はコーヒーを飲み終えた。
砂糖が一切入っていないコーヒーは、その苦味で脳を刺激する。博士の研究のお供だ。
「あの、博士……。ごめんなさい私、ここでゆっくりはできないんです。また外に行かないと」
「ん、どうしてだ?」
「ご主人様がお屋敷にいなかったんです。ここにもいないみたいですし、私、早く薬箱を渡さないといけないのに……」
メイドの言葉に博士は頷いた。なるほどあの男なら、屋敷の自室に籠るようなタイプではあるまいと。
このような場合の行先も少し予想がある。付き合いが長いだけあり、相手の思考も分かるというもの。
「ならばきっと、工業地区だろう。あそこのゾンビは他の地区のとは違い、整然と動いているようだ。この事件についての何らかの手掛かりがあるかもしれん。君の主人が事件解決に動くようならそこへ向かうはずだ」
「わ、ありがとうございます!」
メイドは早速椅子から立ち上がり、デッキブラシを持って外へ出ようとする。それを博士は慌てて止めた。
「おい待て、逸るな! まったく急ぎ過ぎだ君は。まさかそんな装備で向かうつもりか?」
「でも、ご主人様が……」
「ええい君のご主人様愛は分かった、行くなとは言ってない。ただ渡すものがある。せめてそれを持っていけ」
そう言うと博士は、部屋の奥へ歩いた。
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