第5話
屋敷は暗がりの中に、変わらず聳え立っていた。辺りは静かで、ゾンビもいない。
メイドは昼間自分がうろついた庭をまっすぐ通り抜け、出入り口である大きな扉の前に立つ。
すぐにノックはできない。メイドは恐れていた。屋敷の中のメイドたちや自らの主人が、既にゾンビになっている可能性を。
だが屋敷の窓を見れば、内側から木板が打ちつけられ明かりが漏れぬようにしてある。扉に耳をすませば、人の気配もする。
きっと皆無事だ。そう判断し、メイドは扉を叩いた。
「あんた……!」
扉の覗き窓が開き、メイドの同僚がその両眼で三つ編みのメイドを見据える。
「私です。入れてください……!」
「駄目、駄目だよ。中には入れられない」
この声は、背の高いメイドだ。メイドは一先ず、知っている人が無事そうな姿に安堵した。
しかし中に入れて貰えないと困ってしまう。互いに小声で問答する。
「どうしてですか」
「ずいぶんと帰りが遅かったじゃないか。噛まれてるんじゃないのかい」
「噛まれてません。ほら、腕も、首も」
メイドは服の袖をまくり上げたり、首元を見せたりする。
外は暗く、覗き窓からでは噛まれた跡があるかなど分からない。それでも肌が緑色でないことは確認できた。
「……なら、裏口から回って入って来な。こっちの扉は家具で塞いでるんだ」
指示に従い、庭を半周して屋敷の裏手に出る。
メイドたちが良く使う通用口を再びノックすると、静かに開いて背の高いメイドが出てきた。
「早く入れ。よし、服を脱ぎな。……確認だよ確認! ぼさっとしない!」
半ば脱がされる形で、三つ編みのメイドはメイド服を取られた。
下着姿の彼女の四肢を、背の高いメイドとその取り巻きのメイドたちが隅々まで視線を這わせる。
「痩せてんね、あんた。なんか両肩が赤いけど、他に怪我も噛み跡もないか」
メイドは屋敷の廊下に、顔を赤くしながら立たされている。
自分の貧相な身体を晒されるのは恥ずかしかった。
立っているついでに屋敷の様子を窺う。
メイドたちは奔走して慌ただしい。掃除用具を抱えたメイドが向こうの廊下を走り、ソファや棚を動かしてバリケードにするメイド、木板を持って階段へ向かうメイドもいる。
「はい、服。もういいから着な」
メイドがせっせと着替え直していると、背の高いメイドはデッキブラシを一本持ってきた。
柄の長く、先端に緑色のブラシが付いている木製の清掃道具。突き出されたそれを、メイドは受け取った。
「そ、掃除ですか? 私は────」
「馬鹿、そんな場合か。外にゾンビどもがうろついてるんだろ? そいつらが中に入ってきたら、それで戦うんだよ」
メイドは自分が両手で掴んでいるデッキブラシに視線を落とす。
どこからどう見ても、普通のデッキブラシだ。間違っても武器ではない。
(え? これで? これで戦うの? ゾンビと?)
これじゃ勝てない、と背の高いメイドに対して言おうとした時、目の前にはもうそのメイドはいなかった。
他のメイドたちに連れられ、次の仕事へ移ったらしい。後にはデッキブラシを一本だけ持った三つ編みのメイドだけが残される。
(行っちゃった……。あ、そうだ。とにかくご主人様に会わないと……)
メイドがその場を離れようとすると、廊下の曲がり角で違うメイドとぶつかりそうになった。
寸前で相手が避けて、衝突は避けられる。
「おっと……。ああ、あなた。帰って来たと聞いたので、状況を説明しようと思ったのですが」
「わ、メイド長……! すいません、お願いします」
金髪のメイドは、三つ編みのメイドに現状を伝える。
先ほどのメイドはあまり説明してくれなかったので、有難いことだった。
「数時間前から、ゾンビなる怪物が街中に出現。我々はゾンビの屋敷への侵入を防ぐため防衛線を構築中で、不用意な外出は禁止。メイドたちは今のところ全員無事です」
「分かりました……! あ、ええと、ご主人様は今どこにいますか? 薬を渡さないと……」
「ご主人様はゾンビ出現が確認された時、この事態解明のために外出されました。現時刻までご帰還されていません。なので我らの使命は一つ。ご主人様の家をお守りすることだけです」
このメイドに、姿を見せぬ主人に対する心配はない。あの御方は強く、ゾンビになど負けはしないという絶対的な信頼があった。
それは目の前で話を聞いているメイドも同様だ。
(異変解決のために一早く動き出すなんて……。流石ご主人様……)
この恐ろしい騒動もきっと解決するはずだ。何故ならば、ご主人様は無敵で強くて優しくてカッコいいから。
そのようなメイドたちの信頼は無条件ではない。主人の剣技を、頭脳を、身体能力を知っている。彼女たちの主は、人並み外れた力を持っているのだ。
(私も頑張ってお屋敷を守らないと!)
メイドは気合を入れ、デッキブラシを握り直した。そして、金髪のメイドに自らの仕事を問う。
「私、何すればいいですか!?」
「何もしなくて結構です。いざという時の戦闘員として、自室で待機していてください」
(やっぱりお払い箱じゃん……!)
普段からまともに仕事のできないメイドに、緊急時の仕事はなかった。
やる気を見せた彼女は肩を落とす。すると、金髪のメイドの身体が揺れた。
「う……」
「あ、大丈夫……ですか?」
少し具合が悪そうだ。汗をかいている。
金髪のメイドは片手で頭を押さえながらよろめくも、倒れまいと壁に手を当てて持ち直す。
「どうも、昼から体調が芳しくありませんが……。職務に支障はありません、お気になさらず」
三つ編みのメイドは心配した。大きな病気でなければいいのだが。
病で命を落とす人間を見てきた。腐った世界の底に医者はいない。病魔に侵されればもう、祈るほかない。
幸いにここはもう底ではない。この騒動が終われば、博士に相談もできるだろう。
「……すいません。待機と言いましたが、やはり命令を変更します。私の代わりに浴場を掃除してきてもらえませんか? ちょうどデッキブラシを持っているようですし、洗剤は渡します」
金髪のメイドは、ポケットから紙の包みを取り出して三つ編みのメイドに渡した。
「床と浴槽を掃除するだけで結構です。これなら、何も壊しませんよね」
屋敷の浴場は、まま広い。大浴場とまでは言えないが、屋敷の主が一人で使うには十分以上に大きい。屋敷のメイドたちが交代しながら使うこともできる。
密室に充満する白い湯気の中、三つ編みのメイドは一人、デッキブラシで大理石の床を擦っていた。
「ごっしゅじんさま~ごっしゅじんさま~♪ つきよにひかるーそのひとみー♪ ぎんのけんがくもをきるー♪」
誰も聞いていないのをいいことに、メイドは自作の歌を歌いながら床中を泡まみれにする。
紙に包まった白い粉は、床に撒いて水、浴場では湯と合わせて擦るだけでいい。ほとんどの汚れは、この洗剤とブラシだけで取れるという逸品だ。
袖をまくり、裸足の姿で仕事をこなす。床が終わり、次は浴槽だ。
浴槽でもやることは変わらない。洗剤を撒き、湯を散らし、デッキブラシを振るうだけ。全て洗い終われば、再び湯の入った桶をひっくり返して洗剤を落とす。
「ふぅ、できた……! やったぁ!」
浴場はピカピカに磨かれた。メイドは自分の仕事のでき栄えに満足し、損害も二、三回自分が転ぶだけで済んだことに若干の感動を覚えた。
達成感の汗をぬぐいながら浴場から退出し、脱衣所で手足を拭き、制服の一部である白のソックスと黒い革靴を履き直す。デッキブラシは持ち運ぶことにし、洗剤は後で返そうとポケットに入れる。
脱衣所の外、屋敷の廊下は静かになっていた。
掃除に入る前は、幾人かのメイドたちが慌ただしく右往左往していたのにも関わらず、今や足音のみならず声すら聞こえない。
(…………? どうしたんだろう)
何か不気味な雰囲気を感じつつも、仕事が終わった報告をせねばならない。
メイドは、金髪の彼女を捜した。具合が悪いのなら部屋で休んでいるかもしれない。
「きゃっ!」
屋敷の廊下の角で、今度はぶつかった。
メイドは自分の不注意を後悔しながら、目の前のメイドに謝る。
「すいませんっ! 私が悪くって────」
相手は背の高いメイドだった。だが様子がおかしい。
三つ編みのメイドがぶつかり、頭を下げて謝る間もずっと立ったまま動かない。
まるで意識が抜けているような。目線もどこか違う所を向いている。
「も、もしもし……?」
「あ……う…………」
背の高いメイドが、突如として襲い掛かって来た。三つ編みのメイドを掴もうとする腕は躱されるも、執拗に目の前の獲物を狙おうと犬歯の伸びた口を開ける。
肌が異常な速さで緑色に塗り変えられていく。彼女は既にゾンビと化していた。
「う、嘘っ……!? もう屋敷の中にゾンビが……!?」
他のメイドに連絡しようと、一目散にその場から逃げ出す。
三つ編みのメイドは、屋敷のバリケードが破られたのかと考えた。だが、走り回る限り屋敷の中は、変わらず外界と遮断されている。
窓は木板が打ちつけられ、正面扉はソファや棚でふさがれたまま。どこからもゾンビは侵入できないはずだ。
そして、屋敷の中で見たものはもう一つ。場所を問わず倒れているメイドたちだった。
意識を失っているが辛そうに汗をかき、中には肌が既に緑色に変化している者もいる。メイドが声をかける相手はもう存在しない。
「どうして……!? 皆、噛まれたの? でもゾンビが入る余地なんて……!」
理由など分からない。考察する時間もない。倒れていたメイドたちは徐々に起き上がり、そして血走った眼で、まだ血色のいい人間を捜し出す。
この場は逃げなければ。しかし、一体何処へ?
「はあっ、はあっ……! 駄目、全部塞がってる! 閉じ込められてる、私!」
皮肉にも、外敵に備えた守りはそのまま、中の者を逃がさぬ牢獄と化していた。木板や家具をどかしている余裕はない。
屋敷を走って逃げまわりながら、メイドは必死に考える。屋敷の中より、外に出た方がいいはずだ。
「そうだ、裏口! 鍵だけなら簡単に開けられる!」
まさに自分が入って来た扉を探し、廊下を走る。
すると、その途中に金髪のメイドが壁に寄り添いながら立っていた。
「あわわ、メイド長! 大変なんです!」
話しかけようとするも、反応は鈍い。
肌こそまだ人のままであるが、息も絶え絶えに今にも倒れてしまいそうだ。
「あな、た……。平気、なのね」
「はい、私はなんとか……。はや、早く逃げましょう、メイド長! も、も、もうこのお屋敷は……!」
金髪のメイドは俯きながら、首を横に振る。もう、動く気力がない。
身体は言うことを聞かなくなり、自らの運命を悟っていた。
「私は、じきに、ゾンビになる……。お腹が熱くて、気持ち悪いぐらいに穏やかな気分……。そう、あれが原因、か……」
壁にもたれかけた身体が、どんどんとずり落ちていく。メイドはそれを見ていることしかできない。手を差し伸べることすら。
「研究所の、博士が……。この事件を、ゾンビを、調べてくれるって……。そっちに、逃げなさい……。ご主人様、申し訳、ありま…………」
床に倒れ伏した金髪のメイドは、それきり動かなくなった。
(そんな……! メイドで無事な人はもういないの!? どうして、どうしてこんな────)
廊下の奥から、背の高いメイドが歩いて来る。裏口を使うには、彼女をどうにかしないと横を通らせてはくれなさそうだ。
三つ編みのメイドは、デッキブラシを強く握った。
「あのっ! そこ、通らせてください!」
柄を握り、ブラシの部分を背の高いメイドに対して槍のように突き出す。
ゾンビを押し倒し、その隙に裏口を使おうという算段だった。
しかし三つ編みのメイドの腕力では押し倒すに至らず、ただ小突いただけに終わる。ゾンビは自分を突いたブラシを掴み、逆に押し返した。
「きゃっ!」
ゾンビとなり力が増しているのか、三つ編みのメイドは武器を簡単に弾かれ、廊下にしりもちをついてしまう。
ゾンビには勝てない。彼女は急いで起き上がり、裏口以外の出口を探すことにした。
(駄目じゃん! デッキブラシじゃゾンビと戦えないじゃん!)
屋敷の一階に、もう逃げ場はない。メイドのゾンビに追われながら、二階への階段を上る。
二階はほぼ一階と同じ広さであるが、一階で待機しているメイドが殆どのため、ゾンビも少なかった。
(馬鹿、二階に逃げてどうするの……!? 出口なんてないって! あーもう私の馬鹿馬鹿ぁ!)
三つ編みのメイドは、廊下の端まで追いつめられる。廊下の端には窓が一つあったが、それは今や、二枚の木板が打ちつけられていた。
釘や槌が足元に転がっていることに注意しながら、ゾンビの行列をデッキブラシで押さえつける。廊下は大勢が一度に通行できるほどの広さではないため、どんな大群でも二列に並ぶことになる。
デッキブラシで必死に列の先頭を押し、進行を阻もうとするメイド。
そんなことはお構いなしに、唯一残ったまともな人間を仲間にしようとする同僚のゾンビ。
ブラシを介した力比べでは、三つ編みのメイドは圧倒的に不利だ。徐々に押され、このままではやがて喰われてしまうだろう。
ゾンビの肉壁が迫り、メイドは窓辺に背中を打った。
その衝撃でごとりと、何かが落ちる音がする。
メイドが横目で確認すると、なんと窓に打ちつけられた木板が一枚剥がれていた。しかもよく見れば、始めから釘など殆ど刺さっていない。
この窓はまだ施工中だった。一階の防御を優先し、二階の窓は後回しにされていたのだ。
裏口から脱出できないのは不幸かもしれない。ならばこれは、不幸中の幸いだ。
デッキブラシを片手で支えながら、メイドはもう片方の手で窓の木板を剥がす。それは簡単に取れ、外の夜空がよく見えるようになった。
最後の問題は、窓が開かないということ。この窓ガラスは、開くような構造をしていない。
「ああ、もうっ! こんなもの!」
メイドはデッキブラシの矛先をゾンビから窓に向け変えると、思いっきり突いた。窓に段々とヒビが入っていく。
ゾンビたちはデッキブラシという堰が無くなり、どっと川の流れるようにメイドに押し寄せる。ゾンビの手がメイドを逃がすまいと伸びた。
「私はっ! ご主人様のメイドだから! どうしても渡さなきゃいけないものがあるのーっ!」
メイドの渾身の叫びと、最後の体当たりで、窓は儚く砕けた。
宙に投げ出される身体と、舞い散るガラスの破片。それらは月夜に照らされ、光の反射が幻想的な一瞬を作り出す。
(あ、綺麗────)
ただそれは、本当に一瞬のこと。すぐにメイドは地面に墜落し、ガラス片が肌を切り裂いた。
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