第4話
夕焼けが石畳の道を照らす帰り道。
メイドは木箱を両手で水平に抱えながら、急いでいた。
思ったよりも帰りが遅くなった。随分と話し込んでいたようだ。
主人からは時間が掛かっても構わないと言われてはいるが、やはり急ぎたい。
大切な薬を届ける仕事なのだ。メイドは、喜ぶ主人の顔が見たい一心で少し駆け足に街を急ぐ。
が、メイドは不運であった。
転がっていた小石に躓いてしまったのだ。
「あっ」
何の受け身もなく、ぐしゃりと身体全体を石の上にぶつける。顔面を正面から地面にぶつけることは避けられたが、代わりに右頬が痛む。
そして、手に持っていた木箱は回転しながら前方へ宙を舞い、石畳に衝突すると同時にその薄い蓋を開けた。中からは緑色の団子がいくつか飛び出る。
「あっ、あっ……!」
すぐさま起き上がり、零れ落ちた団子を拾おうとする。
だが団子の一つは傾斜した地面を転がって行き、街の裏路地へとメイドを誘う。
「待ってぇ……!」
裏路地は、急勾配だ。薄暗い斜面の道の両脇に、怪しげな露店や開かずの店などが軒を連ねる。奇妙な達磨や提灯など、意図不明な飾りつけも多い。
団子は転がり続け、メイドはそれを追い続ける。屋敷のメイドにしてはみっともない姿であったが、裏路地はいつにもまして静かで、それを目撃する者はいなかった。
駆け出すと速度が付き、中々止まれない。
団子は路地の行き止まりで壁にぶつかる。後のメイドも続いて、全身で煉瓦造りの壁に衝突した。
「あ痛たたた……」
こうなると分かってはいたが、なんとか団子を潰さぬように壁にぶつかるのが精一杯だった。しかし、目的は達せられた。
団子は随分と汚れてしまったが、水で洗えば食べられるだろうと考え、メイドはそれを拾い上げようとかがむ。
しかし、やはりメイドは不運だった。
メイドが衝突した衝撃で、隣の住居の二階のベランダの手すりに飾られていた花瓶がバランスを崩した。
花瓶はゆっくりと左右に揺れ動き、そして、ベランダの外側──裏路地でかがむメイドの後頭部を目掛け落ちて行く。
「ふげっ────!」
鈍い音がメイドの脳に響いた。
意識は失われ、視界が暗転しながら地面に倒れ込む。
しばらく経って、メイドは目を開けた。痛む後頭部を押さえ、起き上がる。
すると、赤い一輪の花が頭の上に乗っていたようで、ふわりと落ちてきた。
それを手に取りながら辺りを見回す。何故か真っ二つに割れたような花瓶と、やたら濡れている自分の頭と上半身、手には一輪の花。
一体何があったのか、よく理解できない。ただ、追いかけていた団子は自分の腹で押しつぶしてしまったことは分かった。
潰れて平らになり、中身の出た団子を、メイドは悲しみながら白いエプロンから引き剥がす。全くの無駄足だったようだ。
暗かった裏路地は更に暗くなっている。気付けば、街にはとうに夜の帳が落ちていた。
(早く帰らないと……。道草喰っちゃった。ご主人様がきっと待ってる)
裏路地を出て住宅地を歩き出すと、すぐに異変に気付く。
住人の様子がおかしい。
煉瓦造りの家屋同士に挟まれた、道の脇に立っているだけの男は、目線がずっと空を向いていた。
口は半開きで唾液が漏れている。しかしそれを気にする様子もない。
呼吸は荒く、何より奇妙なのは肌の色が緑がかっていることだ。
メイドはその男とできるだけ距離を取りながら、挨拶代わりに軽く頭を下げてそっと通り過ぎようとする。
ああいう手合いには関わらない方がいいと知っている。頭を壊した人間など、貧民窟では嫌と言うほど見てきたのだ。
しかし、男の正面を往くと突然、男は呻きながらメイドに近づいてくる。
「う、あ…………」
「ひえっ!?」
動揺して上ずった声がメイドから飛び出た。
メイドが煉瓦の壁に背中が付くまで身を引いても、男は歩みを止めない。
明らかにおかしい。喘ぐように溢れる吐息、血走った瞳、緑の肌色。男はまるでメイドを喰おうかとでもいうように、その両手をメイドの両肩へ伸ばす。
(う、痛いっ! 力、強い……!)
血管の浮き出た異色の若い男の手は、黒地のメイド服にがっしりと食い込んだ。
その爪は深く、布に穴を開け女の柔肌をも貫かんと力が籠められる。一般的な成人男性の握力の域を超えているのではないかと、メイドが息を呑むほどに。
「や、やめ……! 離してください! ひ、人、人を呼びますよ!?」
彼女が精一杯絞り出した大きな声にも、男は反応を示さない。それどころか力は増し、男の身がさらににじり寄ってくる。
華奢なメイドの身体は硬い壁に完全に押し付けられ、最早逃れることはできない。力の差が圧倒的に離れすぎていた。
「嫌っ! だ、誰か! 助けてください! 変な、変な人がいますーっ!」
男の頭が迫る。その口は開いたまま、唾液がメイドの首元を濡らす。
メイドは両腕で必死に男の顔面と胸元を押さえ、動きを止めて押し返そうとするも時間稼ぎにしかならない。
だがメイドの助けを呼ぶ声は、暗闇に消えていったまま帰ってこない。
「どうして……!?」
夜、皆はもう家にいる時間のはずだ。だがどうしてか、灯りのない家さえ見受けられる。もう寝てしまったのだろうか。
そうだとしても、灯りのある家からすら誰も出てこないのは異常だ。窓から顔を覗かせ様子を窺うということもない。
まるで、誰もいないかのように。街は静かに彼女を見棄てた。
鬼気迫る表情の男の顔はもう、文字通りメイドの目と鼻の先だ。やけに鋭く伸びた犬歯すらよく見える。
この男の目的が何なのか、これから何をされるのか。全く分からないからこそ恐ろしい。根源の怖気。未知への畏れ。
(駄目、駄目、駄目……! 分かんないよ、無理! 殺される、の……?)
正体不明なモノが持つ、本能を刺激する恐怖。理不尽で意味不明な存在はとても、怖い。
仮に男の目的が強盗か、彼女の身体であれば。それは恐ろしくとも理性の訴える恐怖だ。男の目的が済めば解放されると諦めか辛抱もできよう。
だが、この本能的恐怖は終わらない。諦めも辛抱もどちらも通じない。目の前の男の目的が分からなければ抗いようもない。それは、死への怯えさえメイドにもたらした。
彼女の頬に、無意識に涙が伝う。透き通った水滴は音もなく顎まで流れ、足元の石畳に黒い影を残して消えていく。
狼のような牙が、メイドの首筋に触れる。
(ご主人様……)
細い両腕の抵抗は全く意味を成さない。恐怖に押しつぶされ、メイドは目を閉じ、来る運命を受け入れた。
最後にその主人のことを想って。
カーン、とかん高い金属音が辺りに響いた。
メイドに覆いかぶさっていた男の動きが鈍り、その鋭い指も解けて地面に倒れ伏していく。
緑色の肌の男の背後には、白いコックコートと長い白帽子を被った男が立っている。
「よう。元気か? 噛まれたりしてないか?」
「えっ、あ、は、はいっ! どこも噛まれてまへんっ」
動揺して自分の舌を噛むメイドに、フライパンを持った男は笑いかけた。
その身なりからしてコックであることは明らか。服の端々がヨレていることから、これまでに何度かもみ合いでもしたのだろう。顔には汗もかいている。
「早く離れるぞ。ゾンビども、殴ったりしただけじゃ気絶もしねぇ」
「ゾン、ゾンビ?」
「この緑の肌をした連中だ。……ああクソ、もう集まって来てやがる」
月明かりだけが頼りになる路地には、そこかしこから先ほどの男のようなゾンビが現れ、ゆっくりと二人に向かって歩き始める。
「あ、わ、私が! 私が呼んじゃったかも……」
「そうだな、こいつらは特に音に寄ってくる。だが、お前が叫ばなきゃ俺も助けに来れなかったよ」
コックはこいというような手の仕草でメイドを呼び、一緒に走り出す。しかし、ゾンビの手薄だと思われた道にも、次から次へとゾンビが増えて押し寄せる。
メイドは悟った。この居住地区には、もうまともな人間は自分たちだけなのだと。
聞こえるのは言葉にならない呻き声ばかり。自分が意識を失っている間に、街はとっくに死んでいた。
「……駄目か。数が多すぎる。俺の身体も、限界らしい……」
メイドの隣のコックが、地面に片膝をつく。男の首のところが緑色に変色し始めていることに、メイドは初めて気付いた。
大粒の汗が流れ、息遣いも激しい。コックは変わろうとしている。
「最後に一つ、教えてやる……。ゾンビに噛まれると、俺のようにまた新たなゾンビが増える……。だから、絶対に噛まれるな。生き残りたいならな」
「じゃあ、あなたは……」
コックはそっと、住宅の壁沿いに積まれている大きな木箱を指さした。階段のようになっており、これを登れば平屋の屋根の上に行けそうだ。
周囲からはゾンビの群れが迫ってきている。迷っている暇はもう無い。
「早く行け! 俺は、最後までこいつらを引きつける!」
フライパンにレードルをぶつけることで、大きな金属音を発生させる。ゾンビたちは一斉にコックの方へ向き、木箱をよじ登るメイドには目もくれない。
メイドは後ろを振り向くことができなかった。彼がこれからどうなるのか、想像することも、確認することも怖い。
できることはただ、心の中で感謝することだけだった。
屋根の上は比較的安全だ。地面を蠢くゾンビは、屋根の上にまでは追ってこれない。屋根を伝って移動すれば、襲われることなく居住地区を切り抜けられるだろう。
(どうしてこんなことに……。これは夢なの? こんなことが現実に起こるはずがない……!)
黒い、星も見えないような夜空を前に、メイドはうずくまった。
これまでに味わうことのなかった恐怖を一身に受け、精神は既にストレスで破裂しそうになる。
世界を本物だと受け入れられない。全て夢に違いない。現実逃避の道を必死に探す。
だが、この両肩の痛みは紛れもない真実。血こそ出ていないが、きっと肌に赤い跡がついているだろう。
そしてスカートのポケットには、小さな薬箱。確かに博士から受け取った、大切な物。メイドはそれを取りだし、胸に抱く。
(……届けなくちゃ。仕事を、しないと……)
一度、様変わりした世界の様相についての思考を停止する。
自分はただ、ご主人様のメイドである。主人に対する奉仕こそが生きる意味である。それ以外のことは、考える必要はない。
彼女なりの自己防衛だ。恐怖で狂ってしまう前に、絶望に死んでしまうより先に、自分の思考を消す。命令に従う道具ならば、何を恐れることがあろうか。
薬箱を仕舞う。月の光を浴びながらメイドは立ち上がり、屋敷へと歩き出した。
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