第3話
研究所は、奇妙な建物だった。
外観は一般の家屋より大きく、それこそメイドの仕える屋敷ほどの外周がある。とはいえ窓の数は多くなく、出入り口も正面と裏口の二つだけだ。
見た目で最も特徴的なのは、その建物の上に聳える大きな“おわん”だ。
白い皿のような見た目をした構造物が、まるで研究所という鉢から生える植物のように、空に向かってその威容を示している。
三つ編みのメイドは、その研究所の正面、ガラス張りの扉の前に立った。
扉はひとりでに開き、来客を中へと招き入れる。
これもまた奇妙な仕掛けだった。全てがガラスでできていて。しかも勝手に動く扉など、メイドはこのアルラトにおいて他に見たことがない。
建物の中もまた異質だった。広さの割に誰もいない。正面扉を入ったすぐそこには受付のようなカウンターもあるが、やはり無人。
メイドはやけに白い基調でまとめられた内装の道を通り抜け、奥の部屋へと進む。
研究所が無人のように思えるのは、ここに住んでいる人間が一人しかいないからだ。
やけに雑多な機械が並ぶ部屋で、モニターを前に白衣の女性は唸っていた。
「あのー、博士? お邪魔します……」
メイドは深々と一礼をして、部屋に入る。
女性はメイドに向かって振り向いた。
「ああ、来たのか。まあ座れ」
またもや透明な、ガラス張りのテーブル。博士と呼ばれた女性は、そこの椅子に腰かけるよう促す。
テーブルの上には妙なパーツや機械が山積みにされていたが、博士はそれを無造作に押しのけ、金属片が音を立て床にこぼれていった。
メイドはふかふかの来客用椅子に座り、手荷物をテーブルの上に置いた。
そして、博士と呼ばれる女性を見つめる。
橙色の長い髪に、赤いフレームのメガネをかけた女性。ヒールのある靴を履き、常に白衣を身に纏う。
以前、メイドはその格好から医者なのかと尋ねたことがあったが、それは否定された。彼女曰く、科学者であるらしい。メイドには何のことか分からなかった。
彼女は自らを博士と呼称し、周囲にもそう呼ぶよう伝えた。研究所の博士と言えば今や、アルラトでも名が通る。
「さて、今回のブツはと……」
博士はメイドの持ってきた紙袋の中身を取り出す。中に入っていた、長方形の包みを見て、嬉しそうに笑みをこぼした。
「うむ、カステラか! いいじゃないか当主サマ、よし、早速お茶を淹れて切り分けるとするか……。そうだ、君も一緒に食べるか?」
「は、はい……?」
博士は部屋の奥へ姿を隠すと、ティーセット二つとポットを一つ持ってきた。
「お、お茶……。い、淹れます、私」
「あーいい、結構。君、使い方知らないだろう」
二つのカップに、紐のついた謎の小袋を一つずつ入れると、博士はその中にポットから湯を注いだ。
何故その金属製のポットから湯が出るのか、メイドには一切見当がつかない。そして、カップの中の湯がお茶に変わっていく原理も、やはり不明だった。
博士はその間に、カステラの用意をする。
長方形の包みが開けられると、こんがりと焼き目のついた、甘い匂いのするスポンジが現れた。
「カステラだよカステラ。君のご主人様が持ってきたお菓子。まあせっかくだから食べ給え。美味いぞ」
部屋の奥からまな板と包丁が持ち出され、博士は手際よく菓子を切っていく。二つの皿にそれぞれ四切れずつ分け入れ、菓子の入っていた包みはゴミ箱に捨てられた。
フォークと共に差し出されたそれを見て、メイドは困惑する。
「あ、その……」
「ん? どうした。もしかして嫌いなのか?」
「いや、えっと、カステラって……何ですか?」
メイドはあたふたしながら、小さな声で恐る恐る尋ねる。顔に段々と汗をかきはじめてきた。
見た目と匂いから、ケーキの一種であることは分かる。だが、カステラという名を聞いたことはない。
「甘い焼き菓子だよ。なんだ、まさかカステラを知らないとはな……。ああでもそうか、君は貧民窟の出身だったか。ならば見たことも聞いたこともないのも道理だな」
博士はうんうんと頷き、自分の皿に入っていたカステラを二切れ分、メイドの皿に移した。
「ほら、食べるといい。お茶も、ほら」
「えええっ!? で、でもこれ、博士にと渡された物で……。わ、私が食べてしまっては……」
「いいんだよ、私が貰ったもんだから誰に振舞おうと自由だろ。それに、当主サマはきっと、アンタに食べて貰うことも想定してるだろうさ。あの男ならね」
メイドは顔を赤くして、フォークを手に取った。
気遣われた嬉しさが隠せないでいる。小腹も空いていた。
「あ、ありがとうございます。いただきます……」
「よろしい。いただきます、と」
フォークを菓子に刺すと、焼き目が少し硬めに抵抗しながらも、中はすんなりと刺さっていった。
見た目からでも上等なものと分かるそれを、メイドはゆっくりと口に運ぶ。
ふんわりと、卵の風味が鼻を突き抜ける。
砂糖をふんだんに使ったそれはとても甘く、メイドは顔をほころばせた。
(お、美味しい……! すごい、こんなお菓子食べたことない……!)
スポンジを咀嚼すると、まるで融けるかのように消えていった。一切れ食べただけなのに、頭の中に充足感が満ちる。
水分を奪われた口内にお茶を流しいれると、メイドはほっと一息ついた。
「……ずいぶん美味しそうに食べるじゃないか、メイドちゃん。気に入ってくれたならいいさ」
気が付くと、目の前の博士がお茶を飲みながら、カステラを食べるメイドをじっと見ていた。
その視線にメイドは再び、顔を赤くして固まってしまう。
「ごめ、ごめんなさい……。ちょっとはしたなかった、ですか」
「あ、いや。気にしないでくれ。私は見てないから」
博士は身体の向きを九十度変え、メイドから目線をずらしてカステラを食べ始めた。
メイドも遠慮なく、カステラとお茶を交互に頂く。
(甘い、甘い、美味しい……。はぁ、幸せ……)
皿もカップもすぐに空になった。
普段、こういった菓子は食べない。職場である屋敷に、メイドが食べられるお菓子が置いてあったとしても、彼女の分は存在しなかった。
だからこそ、この甘さは幸せだ。彼女はしばらく呆けながら、幸せの残り香まで噛みしめる。
「満足したかい、メイドちゃん。またどうせ、屋敷で皿で割ったんだろ」
「え、どうしてそれを……!? それに、メイドちゃんって何ですか……?」
博士が、メイドの方へ身体を向け直す。飲み干したお茶のカップを、静かにソーサーへ置いた。
「だって、ここに来たときから顔がしょげてるし、姿勢もぐんにゃりしてるし。ほら、もっとシャキッとしな。元気が出たんならさ」
言われた通り、メイドは自分の姿勢を改めた。
屋敷でも他のメイドから言及されることがあるのだが、ついつい猫背になってしまうのがこのメイドの悪癖だった。
彼女もそれを理解しているが、慣れていないと中々正しい姿勢というのは維持できない。
「メイドちゃんったらメイドちゃん、アンタのことだよ。可愛いでしょ。他に呼びようがある?」
考えてみたが、特に代案は浮かばない。
メイド──正確にはメイド見習い──たる彼女には、自分の名前がある。名すら持たぬ捨て子が、自らの主人より新たに賜った名だ。
だがそれを、軽々しく口にすることは困難。彼女が唯一持つ宝物故に、それは主人と自分以外誰も知らぬ、知られてはいけぬもの。
「いいえ、何とでもお呼びください……」
「でしょ? 君、今度から他の人にもメイドちゃんって呼んでもらえばいい。この研究所に来るメイドはアンタ一人だけだけど、あの屋敷には他にもメイドがいっぱいいるんだから。どのメイドなのか分かりにくいじゃないか」
二人分の空のカップに、博士がポットから再び湯を注ぐ。
透明な液体は小袋から抽出される茶葉の成分によりどんどん色づいていった。
お茶を飲みながら、談笑は続く。博士はこのメイドのことを、まるで友達かのように扱っていた。
屋敷において三つ編みのメイドは邪魔者である。生まれも育ちも貧民窟ということで、周囲からは距離を取られがちだ。
だから、博士とお茶を飲む時間は、彼女にとって仕事を忘れられるひと時だった。
「おっとそうだ、話し込んでる場合じゃない。はいこれ、あのキザな男に届けてやって」
博士は席から立ち上がり、奥の棚から銀色の小箱を取り出す。薬の入った入れ物だ。
メイドの主人は薬を必要としている。持病があり、長い間薬を飲まないと身体が不調を訴え始める。
「いつもありがとうございます。ご主人様に代わり、お礼申し上げます」
メイドは深々と礼をし、それを受け取り大事そうにポケットへ入れた。
そして、かねてより疑問だったことを尋ねてみることにした。
「あの……。博士とご主人様って……一体どのようなご関係なのですか?」
「ん? 気になるかい?」
にこり、というより、にやり、と博士は笑った。
白い歯を光らせ、何か思いついた様子。メイドは何事かと身構える。
「……もし、恋人だって言ったらどうする?」
「こっ! 恋人……!?」
衝撃の発言に、メイドは開いた口を手で押さえながら考える。
ご主人様と、その隣を歩く博士。手を繋ぐ二人。笑い合いながら話をする二人。
そして夜。二人はベランダの手すりに腰かけ酒の入ったグラスを揺らしながら、月明かりの下互いの身体を引き寄せ、唇を────
(いやいやいや! あ、ありえませんっ! ありえない! 二人がそんな、そんな、でも、妙に親し気ではあるし……!?)
急に溢れ出す妄想は余所に置く。顔を赤くしながら、メイドは博士の容姿を隅々まで注視する。
ヒールの靴を履いているが、背丈は主人より低い。特徴的な白衣の下は、白いワイシャツと黒いズボン、赤いネクタイを締めている。ただし首元は緩め。
顔立ちはメイドより年上の、大人の女性といった落ち着いた雰囲気を備えた美人であり、胸はメイドと比較にならないほど大きく見える。
(ご、ご主人様はこういう人が好みなのかな……)
メイドの服装は、白黒の制服にホワイトブリムと決まっているので変えられない。また、身体的な大きさを変えるのにも無理があった。
メイドは自分の胸に手を当てる。食事も満足にできなかった昔は、背も胸も足りなかった。だがここ最近になって環境が変わり、成長期が始まってきたという気がする。
だがそれでも、自分はまだ少女というような外見。とても博士のような雰囲気はだせないとメイドは考える。せめて、編んだ髪を解けば同じぐらいの髪の長さにはなるか。
「……何考えてるのメイドちゃん? 冗談だよ冗談。ただの腐れ縁の古馴染みってとこかな。それじゃ、薬をよろしくね」
「じょ、冗談……でしたか。あははは……」
苦笑いをしながら、メイドは自分の感情について疑問を持った。
(どうして私、こんな冗談に本気になってたんだろ……。別に、ご主人様の恋人が博士でも誰でもいいのに)
今はまだ、その感情の意味を知らない。彼女はただの、忠義の厚いメイドだ。
「それでは、失礼しますっ……!」
機械の稼働音とモニターの光が眩しい部屋からメイドは退室しようとする。
その時ふと、棚の上に置いてある木箱が目に入った。
小さな、弁当箱のような木製の簡素な箱。それは屋敷でも見たことがある。
屋敷のメイドたちがおやつとして食べようとしていたもので、三つ編みのメイドには与えられなかったものだ。
「そうそう、夜から嵐が来るっぽいよ。街の予報士が言ってて……あ、これ気になる? 試供品だとかなんとかって、今朝届いたものなんだけど。欲しいんなら持ってく?」
「いいんですか……!? ありがとうございます!」
中身は団子だと聞いている。メイドは喜んで博士の善意を受け取った。
博士の優しさも、メイドが好きなものだった。
「ん。メイドちゃんはたくさん食べて大きくなるといい。もっとも、お菓子以外も食べないと栄養が偏るがね。それじゃ、またね」
手を振る博士にメイドは再び礼をし、研究所から見送られて帰って行った。
時刻は昼から夕方に差し掛かろうとしている。
夕焼けの空に、カラスが鳴く。肌寒さを感じる空気だった。冬は終わったというのに。
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