第2話

 屋敷の庭は、屋敷の大きさに比例するようにまた広い。

 大量の植え込みや池、区画ごとに分かれて咲く花など、美しい見所が多くある。来客からも人気の庭だ。


 濡れそぼったメイドは一人、その庭の中に立っていた。

 尽きない目元の隈と、しょんぼりと落ちた両肩はとても、訓練されたメイドのものとは思えない。


 手には水の入ったじょうろを持ち、傍の花に水をやっている。しかしそれはすぐに終わった。

 庭を整える担当のメイドが、既に今日の仕事を済ませていたのだ。植え込みの余分な枝を切り取る仕事も、乾いた土に水をやる仕事もほとんど残ってなどいない。

 手持無沙汰なメイドは一人、屋敷の壁沿いに設置された木陰のベンチに腰掛けた。


 「はあぁ~~~」


 周囲には誰もいないことを確認し、大きなため息をつく。じょうろを隣に置き、頭を抱え、先ほどの自分の行いを反省する。


 (どうしよう、どうしよう……。また大きなミスを、取り返しのつかないことを……。今度こそご主人様に怒られるぅ……!)


 彼女にとって、主人とは絶対である。

 無論、他のメイドたちにとっても主人は大切な存在だ。ただ、彼女たちは雇われという面もある。メイドというのはあくまで仕事なのだ。


 だがこのメイドにとって、ご主人様は全てだった。自分が今こうして生きていること、仕事を与えられていること。

 何もかもが主人あってこそであり、彼女にとってメイドとは、仕事でなく忠義だった。


 (いつも皆に迷惑かけてばっかり、また嫌われちゃったな……。どうしてこう鈍くさいんだろ、私。これじゃ本当に、ご主人様に見棄てられるよ)


 目の前に咲く花畑の、一番手前の花。萎れたそれを見つめる。

 他のメイドが咲き誇る花であるとすれば、自分はこれだ。隅っこで暗く、死にかけているような存在。見た目が悪いからと切除されてしまうかもしれない部分だ。


 この屋敷で働いて数ヵ月。彼女は全く仕事と環境に馴染めないでいた。

 食器を運べば落として割り、窓を拭けば水桶を倒して床を濡らし、料理の勉強をしようとすれば危うく火事を起こしてしまう。

 そんな自分を、メイド自身も使えない無能だと思っている。恩のある主人に報えない辛さに、毎晩悩まされていた。


 「でも、メイドを辞めるわけには……」


 「メイドを辞める? 君が?」


 いつの間にか、音もなく。

 深紅のローブを纏った青年が、ベンチの横に立って彼女の独り言を聞いていた。


 「ひ、ひやあああぁっ!? ご主人様ぁ!?」


 暖かな風が男の銀の髪を揺らす。男は、気品に満ちた顔で微笑んだ。


 「急に声をかけてすまないね。隣、いいかな」


 「はいっはいっはいっ!」


 メイドはぶんぶんと首を上下に振り、隣に置いていたじょうろをどかし、自分の膝の上に抱える。

 心臓が高鳴り、脈打つ音が頭の中で止まらない。

 空いた席に男は腰かけ、その紅い瞳でメイドの顔を見た。


 (近い、近い……!)


 メイドの顔が急速に赤くなり、多量の汗が出てくる。ご主人様と目を合わせることなど出来ず、視線が男の胴体や足元をふらふらし始める。

 このメイドは緊張しやすく、人との会話が苦手だった。目上の者と相対する時は特にそれが顕著であり、発する声の全てが震え、身体のこわばりも隠せない。


 「ここにいたか、君。キッチンが騒がしいから何事かと思えば、そこにいたメイドから、皿洗いのメイドが皿を割ったから庭に追い出したって聞いてね。水やりは、もう終わったのかい?」


 (あああああ……! バレてる! 私が皿を割ったの、もうバレてる!)


 どうせ後で主人も知ることになるのだから、時間の問題だった。だが、こうも早く、しかも主人から直に言及されるとは思っていなかった。

 心臓がまた一層跳ね上がり、まさに口から転がり落ちそうになる。


 「あ、う……。えっと、その、はい。ににに、庭で。庭で、庭でお花に水やり、水やりが終わって……。あ、ちが、その……。ごめ、ごめんなさい! お皿、また割ってしまいました……!」


 即座に立ち上がり、メイドはご主人様に深く頭を下げる。

 両手で握ったままのじょうろの持ち手を無意識に強く握りしめ、大粒の汗が顔から落ち地面へとシミを付ける。


 「ああいや、責めようって話じゃないんだ。謝罪はいいからさ、ほら顔を上げて。座りなよ」


 主人に促され、メイドは恐る恐る言うとおりにする。


 「それよりも、怪我は無かったかい? いっぱい割ったみたいじゃないか」


 「えぇ!? あ、はい! ない、ないですっ!」


 メイドは精一杯の笑顔を作る。元気であることをアピールしようと思ったのだが、こわばって引き攣った顔になっている。

 滑稽な様子の自分に、また気分が憂鬱になる。


 「うん、確かに大丈夫そうだ。なら良かったよ」


 「はい、はい……! でもその、あの、お皿……」


 「ん?」


 「べ、べ、弁償とか……しなくちゃ、しないと。えっと、他にも、花瓶とかカーテンとか……」


 どれも高そうなものばかりであった。事実、メイドの壊した家具の中には、貰える給料で支払える額でないものもある。

 メイドは未だ、それらの失敗に対する罰を受けていない。


 「はは、気にしてたのかい? いいよ、弁償は必要ないし君が気に病むこともない。それとも他のメイドに何か言われたのかな?」


 「あ、あり、ありがとう……ございます」


 (弁償もなしに許してくれるの……? 私の怪我まで気にして頂けるなんて、なんてお優しい……)


 嬉しさと恥ずかしさで、メイドは俯く。自分の顔を出来るだけ主人に見せたくなかった。

 そして改めて、その忠義を強める。この人のためなら私は、どんな命令でも受け入れよう。全てこのお方の望むままに、私は仕え続けようと。


 彼女の忠義は、信仰や崇拝にも近かった。

 さもありなん。彼女にとってこの青年こそ、救世主そのものだ。

 吹き溜まり、汚泥の中から彼女を拾い上げ、命を与えてくれた者。その動作を、言の葉一つ一つを彼女は忘れない。死ぬまで、永遠に。


 「ご主人様……。私は何も出来なくて、失敗ばかりです。そ、それでも……。それでも良いのでしょうか? わた、私は、ご主人様のお屋敷にいても……」


 「勿論だとも。なに、君はメイド見習いになってまだ数ヵ月だろ? 失敗をするのは当然のことだ。まだここの生活にも慣れ切っていないだろうし、ゆっくりと出来ることを増やせばいい」


 「は、はいぃ……」


 屋敷の主の笑みに、メイドは息を吐く。その赦しに、心から安寧を得た。

 このような立派な主人に相応しい、立派なメイドになろう。

 自分には届かぬ夢かもしれないが、それでも。これが自分の持つ唯一の夢だと言わんばかりに、メイドは目を閉じ、深く決心した。


 「そうだ、水やりが終わったのなら、お使いを頼もうかな。いいかい?」


 「はいっ! はいっ!」




 屋敷の二階。主の部屋の前で、メイドは紙袋を渡された。さほど大きいものではなく、被れば自分の頭が入るかどうかという大きさだ。

 袋の中には、長い長方形の包みのようなものが入っているが、子細は不明。


 「それを、向こうの丘の向こうの研究所まで持って行ってくれ。ああ、いつものお使いだ。どうだ、やってくれるな?」


 「も、もちろんですっ!」


 緊張しながらも、メイドは答える。

 片手でも持てる紙袋を、自分の命よりも大事なものかのように扱い、丁寧に両手で支えて持った。


 「うん、じゃあ“薬”を頼むよ。博士にもよろしく言っておいてくれ。時間が掛かっても構わないからね」


 敬愛する主人からの、直接のお願いだ。メイドは奮起し、深いお辞儀をしてその場を去る。

 過去にも何回か。同様のお使いを頼まれた。その度に紙袋を持っていくが、中身は恐らく毎回違う。

 そんなこと、彼女にとってはどうでもいいことだが。中身が何だか見ようなどとは、微塵も思わなかった。


 屋敷を出て門をくぐり、いつもと同じ道を辿り居住地区の中を進む。

 働ける者はほとんど違う地区に出ているため、静かだ。老齢の女性が植木に水をやっていたり、猫が塀の上を歩いていたりと、屋敷の厨房のような忙しなさはまるでない。


 途中、居住地区の通りの脇から伸びる細い路地に目がいく。表で暮らす者はほとんど使わない、裏の通りへ行く道だ。

 裏路地は貧民窟へと繋がっている。メイドがかつて暮らした故郷であるが、あの日から戻ったことはない。


 貧民窟のことを想うと、老人の顔が浮かんでくる。メイドを何年も見守って育ててくれた、親のような存在。懐かしさがこみ上げた。

 生きることや死ぬことについて、老人から多くを学んだ。それは今でも、メイドの価値観の一部となって生きている。


 研究所と呼ばれる大きな建物は、居住地区からは少し離れた場所にある。

 特別遠いわけではないが、歩いている最中は暇だ。何も注意するものが無いと、ふと先ほどまでの失態を考えてしまう。


 (ああ~~~! 私の馬鹿、馬鹿! ご主人様の前であんなにどもって汗を流して、絶対変なメイドだと思われてるって!)


 会話している最中は、それどころではなかった。ただ、相手の言葉を聞いて、うんと頷くのが精一杯。

 そして、全て終わった後に後悔する。自分の下手くそな応答に。


 今更悔やんでどうとなるわけでもないが、しかしそう思わずにはいられない。

 手持無沙汰だとこうして余計なことを思い返してしまう自分も、彼女は嫌いだった。


 (しかも、ご主人様に慰められてしまった……)


 メイドは理解していた。こうしてお使いを頼まれたのも、自分に自信を付けさせるためなのだと。

 誰にでも出来る簡単な仕事で、ミスをしたメイドに挽回の機会を与えようという主人の計らい。メイドはそれを嬉しく思う一方で、余計な気を使わせてしまったことに罪悪感を覚える。


 (馬鹿だ、私。本当に……)


 住宅街を抜け野原となった道を歩く。研究所はもうすぐそこだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る