ご主人様のために! ~メイドvsゾンビ~
白ノ光
第1話
「ねえ、じい。この人ずっと動かないよ?」
暗い裏路地で、小さな女の子は道端に寝そべる男を指さした。
男からは悪臭が漂い、おおよそ生気というものを感じない。冷たく、重く地面に伏せている。
「彼は……もう死んでいる。手を合わせて、弔ってあげなさい」
「死んで……?」
少女は不思議そうに首を傾げる。老人の言葉の意味が、よく分かっていない。
じいと呼ばれた男は、その皺だらけの顔をぎこちなく動かして口を開いた。
「我々の人生の果てさ。人はね、誰しも死ぬ。生きている限り確実に、君も、私も、いつかは死ぬんだ」
「…………………………」
「しかし、限りがあるからこそ世界は美しい。今生きていることを、大切にしなさい」
少女は何も言わなかったが、じいがするように、倒れたままの男に向かって手を合わせる。
或る夜の一幕だった。
黒髪の乙女は目を開けた。
閉じたカーテンの向こうから、太陽の輝きが漏れ出し小鳥の歌が聞こえる。
朝が来た。これからも何度も迎えるであろうはずの、変わりのない日々。
ここは屋敷の一室の、彼女に与えられた部屋だ。しかし彼女は、ベッドの上にはいない。
ベッドの横の床で、リネンに包まって寝ていた。ふかふかのベッドは彼女にとって違和感があり、固い床の上の方が慣れている。
(懐かしい夢を見たな……)
もう時間だ。彼女は下着姿の身体を起こし、壁に掛けている黒いワンピースと白いエプロンドレスを手に取った。
────そよ風の吹く地、アルラトには、多くの人々が住居を構え生活していた。
彼らは日々労働しその日の糧を得、眠りに就いて一日を終える。豊かと言える生活ではなかったが、多くの場合、さりとて貧困とも言えるものではない。
工業地区では大勢の労働者がモノを作ることに勤しみ、商業地区では商品やサービスの提供を行っている。
港湾地区では海鳥の鳴き声が絶えず、山林地区では動物の狩猟や木々の伐採が進む。
そして、居住地区ではそれらの地区で働く者たちの家が並び、全体的にのどかな気風である。
そのような居住地区の北端に位置する大きな屋敷の一角、その厨房では多くのメイドたちが仕事をしていた。
時刻は太陽が真上に来る頃。夕食の準備だ。
かまどに火を入れ、鉄板の上の何かを焼く者もいれば鍋に入れた何かを茹でる者もいる。芋の皮を剥く係もいるし、肉に下味をつける者もいる。
にぎやかな厨房であったが、皆勤勉であり、てきぱきと調理は進んでいた。
そして、その隅では洗い物を淡々とこなそうとするメイドもいた。
見た目は至って平凡。服は黒いワンピースの上に白いエプロンドレス、つまりは全メイドが着用するメイド服姿。
彼女は長い黒髪を後ろで三つ編みにしているが、どこかあかぬけない。
彼女の仕事は調理ではない。故あって、調理を任されることはなかった。そのためにこうして、誰にでもできる洗い物という仕事をしている。
他のメイドも必要に応じて洗い物をするが、洗い物しかしないメイドは彼女だけだ。
「はいまな板、洗って。今すぐ!」
「は、はいぃ!」
背の高いメイドに後ろから声を掛けられ、彼女は狼狽えながらも突き出された木の板を洗う。洗剤を染み込ませたスポンジはシンクを泡だらけにし、さながら泡風呂の如く白い泡で満ち溢れさせる。
そのメイドは、水色のゴム手袋をしていた。洗剤が肌を荒らすため、洗い物をするときは着用が推奨されている。
水道の蛇口を捻ってまな板の洗剤を落とそうとしたところ、水が思いのほかに勢いよく出過ぎたようだ。まな板に高圧の水がぶつかり、その飛沫を三つ編みのメイドが頭からかぶる。
「きゃっ!」
「なにやってんだドジ、濡らした床あとで拭くんだよ!」
メイドの、目にもかかりそうな長い前髪から水が垂れる。
タオルで顔でも拭いたいところであったが、今はそんなことをしている場合ではない。不快な気分を我慢しながら、まな板を背の高いメイドに渡す。
「あ、これもお願いします」
金髪のメイドから、十枚以上はあろうかという皿の山がシンクの隣に置かれた。
洗い物は次から次へとやってくる。メイドの手が止まるような時間はなかった。
(毎日何をこんなに使うんだろう……)
洗い物の量に辟易しながら皿の山を持ち上げる。
シンクへ移そうとしただけなのだが、彼女の手袋も、また床も濡れていた。
「あっ」
視界が回転する。足が力なく、するりと床を滑る。
宙に浮く幾枚もの皿を見ながら、メイドは現実から目を逸らすように、その瞼を閉じた。
「ちょっと!」
耳を裂き心臓を跳ね上げる、連続する破砕音。陶器の皿は儚く割れ、比較的無事なものも、欠けていて使い物にならない。
粉々に粉砕された破片が床一面に散らばった。決して元には戻らない。その場にいた誰もが音の発生源である彼女を見つめる。
「あんたさ……」
三つ編みのメイドは上体を起こす。目の前の惨状は認めたくないものだったが、最早自分の愚かさを恨むことしか出来なかった。
彼女が仕事を失敗したのは、これで十回を超える。
「ほんと、ドジで間抜けで……使えない奴だよねあんたは。何をしても無理無理無理。触ったものを全部壊すだけ。これ、弁償できるの? 無理だよね? 貧民街で棄てられてたようなあんたじゃ、金なんてないでしょ」
三つ編みのメイドが、背の高いメイドに叱責される。何も言い返すことは出来ない。ただ、俯いて唇を噛んだ。
「ご主人様も、どうしてこんな娘を拾ったんだか。正直いるだけ迷惑だから、辞めさせて欲しいんだけど。流石のご主人様もそろそろ堪忍袋の緒が切れるんじゃないの?」
その言葉にびくりと、濡れた彼女の身体が震えた。
これまでにしてきた数多くのミスを、彼女は自らの主人の慈悲によって許されてきた。
(最悪だ……。私の馬鹿馬鹿馬鹿……!)
それについては申し訳なく、またご主人様に迷惑をかけてしまったと深く反省する。毎回反省しているのだが、どうしてかいつもやってしまう。
彼女には、この屋敷以外行くところがない。ここを追われれば、生きていく術が無い。ここに働くメイドの誰よりも必死だった。
「昼の仕事が終わったら、皆で試供品の菓子でも食べようと思ったんだけどね。あんたの分はないよ、とっとと掃除しな!」
「そんなひど──あ、なんでもないです。ごめんなさい、ごめんなさい……。今片付けますから……」
うわごとのように謝罪を繰り返しながら立ち上がり、床を拭くための雑巾を手に取ろうとする。しかしそれは、別のメイドの手により防がれた。
「はぁ……あなたに洗い物を頼んだ私の責任です。掃除はしておくので、どこかへへ行っててください」
彼女に皿を渡した、金髪のメイドだった。彼女は他のメイドより偉い。
三つ編みのメイドはそもそも人見知りなのだが、階級的な差もある彼女には、背の高いメイドとは違う苦手意識を持っている。
「あ、あの、その、すいません……。で、出来ますっ。掃除出来ますからっ」
「駄目です。この前、廊下を掃除する時に花瓶を割りましたよね? それでもって、壺の破片を掃除する時に誤って転び、掴んだカーテンを引きちぎったとか。全部聞いていますよ」
つい先日のことだ。これは金髪のメイドが指示したことではないが、担当の者から報告を受けていた。
三つ編みのメイドはつくづく、不運だ。
「もういいです。あなたは大人しく外へ──そうですね、庭で花に水でもやってください。出来ますよね? しばらく厨房へは帰ってこなくていいですから」
「はい、はい……」
メイドは再び項垂れた。怒られるより、呆れられる方が辛い。何の期待もされていないからだ。
踵を返し厨房を出て行こうとすると、もう一度声を掛けられる。
「すいません、その手袋は置いて行ってもらえますか?」
「ごめんなさいぃ!」
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