第10話 天狗あらわる

 まだ陽も昇らない薄暗い朝。

 夜のうちに冷やされた空気が朝靄あさもやとなって足元に漂っていた。

 一羽の鶏が朝一番のいななきをしようとモゾモゾと動き出す。


紅葉くれはっ?」

「もう出かけるの?」

 

 寝床から目覚めた母の安曇あずみが眠そうな目で、ゴソゴソと身支度をする娘に問いかける。


「この前、薬になる薬草の花が沢山咲く場所を見つけたの」

「今日はちょっと足を延ばして山向こうまで採りに行って来るねっ」

 

 娘は振り返り、嬉しそうにニコリと笑い返す。


「あまり遠くまで行ってはダメよ」

「……」

「先日、家に来た行商人の人が話していたのだけれど……」


 母は肩をすぼめると低い声で娘に言う。


「最近ねえ、隣町の山向こうで”天狗てんぐ”を見たって噂話うわさばなし……」

「……」

「木々の間を大きな影が飛んでいったそうよ……」


 娘は何かを思い出した様にクスリッと笑う。


かあさま……大丈夫よっ!」

こまがいれば何も怖い事は無いよ」


 足元で二人の会話を聞いていた様子の狛が耳を立てピクピクと動かす。

 頭を撫でると大きな瞳が嬉しそで、舌をペロリと出した。


 ◇


 娘は着物の足元が邪魔にならない様に紐で縛ると、手作りのマントをはおりる。

 そして背が隠れる程の大きな竹籠を背負うと、日除けの大きなかさをかぶった。


「さあっこま。行きましょっ!」


 娘は母親に手を振るといつもの様に裏山に分け入って行った。

 足元には子犬ほどに大きくなった銀色の毛をした狛が足元に駆け寄る。

 そしてチョロチョロと並ぶ様に付き従って歩いていった。


 ◇


 どれほど山道を歩いただろうか。

 向かいの山から朝日が昇り始めると、娘の歩く道に朝日が射した込んできた。


「ふうううっ」「いい天気っ!」


 陽ざしの温かさに、たまらず心の声が漏れた。

 娘は大きく深呼吸をし、両腕を掲げ大きく背伸びをする。


「んんんっ―――」


 体を左右に揺らし凝り固まった背を伸ばした。


 ◆◇◆◇ 天狗


 うっそうと茂る木々の間から日の光が真っ直ぐに差し込んでくる。

 太陽は既に頭上辺りにさしかかっていた。


 朝の薬草摘みを終えた紅葉くれはは、薬草でいっぱいになった竹籠を地面に下ろす。

 枯れ木を集めると火をおこし、遅い朝食の準備を始めた。

 用意していた干し肉を取り出し、チロチロ燃える火で炙り様子をのぞき見る。

 ついでに先ほど山で採れた椎茸を枝に刺し、干し肉の隣に並べて火で炙る。


 ジュワジュワと干しの肉の中から油がみ出し、こうばしい香りが辺りに漂った。

 こまが舌を出しながら、今か今かと紅葉の顔と干し肉を何度も見合わす。


 突然。

 こまの耳がピクリと動く。

 木々の茂みをにらみ、身構えた。


「狛っ。どうしたの?」


 耳を澄ますと近くで人の声が聞える。


 紅葉は身をかがめながら声のする方へ歩いていく。

 

 人影を見た紅葉は、大木の影に隠れた……。


 弓や槍を手にした数人の男たちが集まり、何やら口論してる。

 男たちは野武士の様な荒々しい格好で険しい顔をしている。 


「いいかっ、今夜だっ!」

「麓の村を襲って必要な物資を調達するぞ」

「証拠は残すなっ!」

「村人は……全員始末しろっ!」


「えっ、盗賊―――?」

 息を潜め、隠れ聞いていた紅葉は思わず声を上げる。


「誰だっ!」

「そこいるのはっ!」

「おいっ!―――誰かいるぞっ!」

 

 男たちが気付き、一斉に振り向く。

 恐ろし気な男たちの目が、声の主を探り捕えようと動いた。


 その時。


「ガサリッ」「ガサリッ」

 

 紅葉が頭の上の枝が大きく揺れた。

 物音に反応して頭上を見上げる。


「えっ」


 横に張り出した大木の枝に人影。


 枝の上に立っていた人影がザンッと宙に舞った―――。


 左右に張り出た木々の枝を蹴る。

 まるで大猿が木々の間を跳び移る様に……木々の間を飛び移る。


「天狗さまっ!?」


 跳躍した大猿は一瞬身を縮めると銀色の光を抜き放った。


 そして銀色の光の残像を残したまま野武士の頭上に打ち下ろした。


「がはっ」


 短い悲鳴とともに野武士の男は地面に倒れ込んだ。

 

 辺りが騒然とする。


「ヒュン」「ヒッヒュン」


 剣が風を斬る音……。


 その度に一人、二人と野武士たちは悲鳴を上げ倒れていく。

 大猿は、まるで疾風の様に野武士たちの間をすり抜けた。


「…………」

 

 木々が繁った森は何事も無かった様に静まり返っていた。


 紅葉は静かになった森に立ち尽くしていた。


 目の前に起こった光景に両方の手の平を合わせていた。

 ……まるで何かにいのる様に。

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