君の話⑫
これはまだ僕が五年生の頃の話。桜が散り始めた春の初旬に母さんの癌は見つかった。春の陽気な風が運んできたのは、陽気とは正反対の知らせだった。
「なあに、母さんは死なないわよ!大丈夫よ、琴」
病院の診察室で癌と告げられた母は力強く笑っていた。まだ幼かった僕を心配させまいと無理して作った笑いは、その時の僕にとっては星のように輝いて見えていた。
「
八重桜、僕の旧姓だ。この時はまだ母さんが女手一つで僕を育てていて、父さんと結婚するのはこの二ヶ月後のことだ。
医師は母さんの病気を治してくれるとこの時は信じていた。すぐ治ってまたあの時の元気な母さんに戻ってくれると信じていた。
だけど、神様は無情であんなに元気だった母さんは、どんどんとやつれて病人らしい体つきになってしまった。管に繋がれてベットの上から動くこともままにならないで苦しそうな母さんを僕はずっと見ていた。
色々な親戚の人が母さんのお見舞いに訪れてきた。その度に僕は冷ややか視線と哀れみの視線を浴びさせられて、五年生の僕にはとてもじゃないが耐えられる環境じゃなかった。この時からだ、僕が視線を気にするようになってしまったのは。
「母さん、大丈夫?」
「大丈夫よ……琴。母さんはすぐに元気になるからね」
「ほら、物語書いてきたよ。母さんが元気になるお話だよ」
「琴は本当に母さんの子だね。いつか母さんみたいに小説家になるのかな?見てみたいなあ、琴の小説」
母さんは小説家だった。映画化もされて書籍化も何回もされている大物小説家だった。そんな母さんが癌に侵されたと分かったマスコミは情報を一気に流した。
色々な情報が錯綜して、たまにマスコミが母さんの元にやってくることもあった。僕はそれが凄く嫌だった。こんなにキツそうな母さんに話を聞くなんて、一体どういうことなんだと幼いながらに感じていた。
僕は母さんの真似っ子をしてよく物語を書いていた。拙くて見るに堪えない小説を書いては母さんに持って行って見てもらっていた。
母さんはいつも面白い、琴はいい小説家になるよと言ってくれていた。それがとても嬉しくて、家に帰っては小説を書く日々を過ごしていた。そんな日々を過ごしていたから、この時の夢は小説家だった。
でもその夢は母さんが亡くなると同時に泡のように消えていった。母さんに読んでもらうためだけの小説だったため、唯一の読者が消えれば、自然に筆を折るってものだ。僕は母さんの部屋に小説の道具をしまって、区切りを付けた。
「
「あ、あぁ任せろ!琴のことは俺がちゃんと面倒見るから!だから、安心してくれ……!」
「琴。こんな母さんでごめんね。もっと成長を見てやりたかった。琴の制服姿見てみたかったなあ。悔しいなあ、あと少しだけ生きられたら見られたのになあ。強く生きてね……琴、そして自由に生きなさい。愛してるわよ」
死ぬ直前、母さんは初めて僕の前で弱音を口にした。いつもは強く凛々しかった母さんの影はこの時だけは無かった。ぶらんと力無く重力に逆らう腕は冷たく、空からは雪が降っていた。
病室には鼻をすする音が響いていた。涙を拭いて最期は笑って母さんを送ってあげようとする大人の泣き声が病室に。
僕は母さんが死んだことを受け入れなかった。受け入れたくなかった。大好きだった母さんともう話せないことを受け入れたくなくて、病室を飛び出してよく母さんと話をした、中庭にある大きな木の下でうずくまり泣いていた。
雪が降るぐらいの寒さなので体はガタガタと震えるけど、そんなことはこの時の僕にはどうで良かった。ずっとうずくまっていると、僕の目の前に一人の少女がやって来たんだ。
「君、大丈夫?寒くない?」
「寒くないもん。寒い方がいいもん」
「寒いのは嫌だよ。ねえ、君名前なんて言うの?」
「八重桜琴じゃなくて、音成琴だった」
「私はね」
なんだっけ、名前。もう七年も前のことだから忘れてしまった。でも、記憶のタンスの中にはちゃんと入っている。古ぼけて今は思い出せていないだけで。
「私ね、重たい病気なんだって。象さんぐらい思いってお母さんが言ってた」
「ふふ、何それ。象さんより重たいって」
「あ、笑った。やっと笑ってくれたね」
少女はおもむろに口を開いて自分が病気に侵されていることを明かした。風邪とかじゃなくて、とても重たい病気だと言っていた。
そういえば、この子は独特な言い回しをする子だった。よくいえばユーモアに溢れていて、泣いていた僕は気付いたら笑っていたんだ。頬を伝う涙は星に変わって、口角はあがっていた。
数分後父さんがやってきて、僕と彼女は別れた。
彼女の病気が治り元気にしているかは分からない。連絡を取る手段もなければ、その時から一回もあっていないような少女だ。でも、元気にしているならば嬉しいと思う。
母を失ってしまった僕は人と関わることを減らし、一人で生きていこうとした。人と関わらなければ悲しい思いをすること思って。
けれど、それが間違えだったと彼女に出会って僕は気付いたんだ。
「……でもね、月海さんに会ってから電話したり二人で遊びに行ったら一人で生きていこうと思わなくなったんだ」
「私と?」
「うん。長いこと人と関わらなかったから忘れていたけど、やっぱり誰かと笑い合うのって最高なんだなってことを思い出してさ。楽しいなあって」
我ながら何を言ってるのだろうと恥ずかしくなる。過去語りをしてつい調子に乗ってしまった。
「へ、へへ。なんか照れるな。急にそんなこと言われると」
彼女は頬をもみじに染めながらポリポリとかく。二人の間にまた気まづい雰囲気が流れる。これはあの時とは違う沈黙だ、小っ恥ずかしさが含まれている。
「琴くん、あのね……」
彼女が何かを喋ろうとした時、リビングの扉が開く。
「へいへい!琴着替えてきたぜ〜!あっ、お邪魔でしたか……?」
「いや、大丈夫。ここにいて」
空気を読まずに入ってきた父さんだったけど、この空気を壊したので空気を読んでいるとも言える。
父さんが入ってくる前に彼女がなんと言おうとしたのか、今となってはそれを知ることは出来ない。
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