第3話
中学二年の二月、弟が38度の熱を出して寝込んだ。ゴホゴホと咳をしていて、呼吸が苦しそうだ。それだけじゃなくて、顔や体などのあちこちに赤いボツボツがある。母さんはどこで買ったかわからないお茶やら何やらを飲ませて治そうとしているけれど、症状はちっともよくならない。
サメは弟の周りを、ゆっくりと回っていた。初めて、このサメのことを怖いと思った。弟がサメにかじられたら、死んじゃうんだろうか。そんなのイヤだ。
このままじゃ、ケンちゃんが危ない。そう思った僕は母さんの目を盗んで、歩いて十分ぐらいのところにある大きな病院にこっそり電話をかけた。家の電話じゃ隠れて話せないから、母さんのスマホをこっそり借りてトイレの中でかけた。病院に電話したことなんて初めてだ。
すぐに病院に連れてきてと言われたので、母さんが料理をしている隙に弟を連れ出した。弟の体はすっかり重くなっていて、抱っこひも越しに二年と十か月の時間が育んだ重みが伝わってきた。サメは外にまでは追ってこなかった。そもそもあいつは
弟は風疹にかかっていた。ここのところ流行しているらしく、未就学児の大規模な集団感染があったばかりだそうだ。弟は栄養がとれず衰弱していたため、ベッドに寝かされて点滴を受け、解熱剤を投与された。
お金をもっていなかったので、結局母さんに電話して来てもらうことになった。怒られることはほぼ確実だったけれど仕方ない。僕が母さんに怒鳴られるだけで弟が助かるなら安いものだ。
この件は後々、思っていたより
それから芋づる式に、例の風呂に弟を浸けていたことや、予防接種を一つも受けさせていなかったこと、その他あらゆることが明るみになった。その結果、僕と弟は児相に保護され、児童心理治療施設に入所することとなった。
施設の暮らしは、共同生活ということもあって窮屈な面もあったけど、我が家よりはよっぽど融通が利いた。久しく食べていなかった甘いおやつも食べられたし、餃子もハンバーグもミートソーススパゲティもご飯のメニューに載ることがあった。
……そんなことも、今は遠い昔の話。僕は就職して、横浜で一人暮らしをしている。仕事はキツいし、給料は安いし、彼女いない歴イコール年齢は絶賛更新中だけれど、なんとか生活している。
弟は最初の施設とは別のところに転所していて、僕はたまにそこを訪ねて弟と面会している。僕と同じで背丈はあんまり伸びなかったから、中学生なのに小学生っぽい見た目をしている。
「あのクソババア、予防接種何も打ってなかった。サイアクだよ。施設に引き取られてなかったら、大人になって全部自費接種になるとこだった」
施設のロビーで立ち話をしていると、弟は荒っぽく吐き捨てた。クソババアというのは、僕らの母さんのことだ。一度、母さんが施設に怒鳴り込んできたことがあって、そのせいで転所になってしまった。それ以来、健児は母さんをクソババア呼ばわりしている。
健児は全く記憶にない父と、うっすら記憶に残った母のことを快く思っていない。憎んでいるかというと少し違くて、自分にとって不利益な存在だったから何となく嫌っている、って感じだ。まぁ、引き離されてからざっくり十年ぐらい経つし、憎悪みたいな強い感情を向ける相手じゃないんだろう。
健児の気持ちもわかる。確かに母さんはクソババアってけなされてもしょうがない人だったかもしれない。けど……少なくとも僕の父さんが生きているうちは、いい母さんだったんだよ。だから、あんまり悪く言われると複雑な気持ちなる。
母さんがどうしているか、今となってはわからない。今でもあのマンションの一室で暮らしているんだろうか。行こうと思えば行けるけれど、行く気にはならない。
サメは施設内にも、今僕が暮らしているアパートにも姿を現さなかった。結局、あのサメは何だったのか。なぜ僕にだけ見えたのか、今となっては知るよしもない。今もあのマンションの一室で、窮屈そうに泳いでいるのだろうか。それとも、もう僕の目にも見えなくなっているのだろうか。
サメといえば……僕は就職後に一度、無性にサメに会いたくなった。あのオオメジロザメを見た水族館に行って、サメと再会しようとした。けれども惜しいことに、水族館はその一年前に閉館していた。
あの水族館で飼育されていた生き物がどうなったか、僕は調べてみた。ノコギリエイ、シロチョウザメ、コツメカワウソ、液浸標本のダイオウイカ、ホホジロザメのはく製……ほとんどの生き物や展示物は、全国各所の水族館に引き取られていた。でも、僕が一番知りたかったオオメジロザメだけは引き取り先が公開されず、今でもその行方は
鉄檻とサメ 武州人也 @hagachi-hm
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