『父の黙祷』

駿介

父の黙祷

 八月六日。

 私はこの日が近づくと、毎年思い出すことがあるのです。

 まだ朝早い庭先で、頭を垂れ、一人手を合わせる父の後ろ姿。

 普段は仏壇にすらろくに手を合わせない父が、この日だけは一際熱心に手を合わせていたことを。

 丁度八時十五分は仕事で忙しいために、代わりに父は出勤前に手を合わせていたのです。

 東京の我が家から、広島のある西の方角を向いて。

 もっとも、いつも子どもの私が起きる前に仕事に出ていくような父でしたから、その光景を私が見たのは数えるほどかと思います。もしかしたら、上手い具合に見たと思い込んでいるだけなのかもしれません。

 いずれにせよ、幼き日の私の記憶には、八月六日の父の姿がハッキリと刻み込まれているのです。



 父は、広島の生まれでした。

 そして父方の祖母は、七十七年前のあの日、広島の地であの惨劇に立ち会った人でした。

 私はあまり言葉を交わしたことがなかった故か、祖母からその時の話を聞くことはついぞありませんでした。人づてに聞いた話では、当時三歳だった祖母は、広島湾に浮かぶ似島にのしまにいたそうです。幸い特に体の不調もなく晩年まで過ごした祖母でしたが、幼き日に見た光景はどのようなものだったのか。きっと、私の想像などの及ぶものではないのでしょう。

 似島は直接の被害は軽微だったものの、その後に救護拠点となり、多くの負傷した方が運ばれた場所でした。それと同時に、市内で命を落とした方々の埋葬場所とされた島でした。島にあった学校の校庭には穴が掘られ、そこに多くの方が埋葬されたのです。今も残るその小学校には、校庭に石碑が建てられています。



 東京で育った私から見ると、広島の人にとって、今でもあの日の出来事というのは大変身近な出来事であるように感じます。

 今も街中には、あの日惨劇を耐え抜いた建物がいくつも残っていますし、親類の誰かに私の祖母のような人間がいる、という方もそう珍しいものではありません。今でも工事で市内を掘り返せば、遺骨が出てくることがあるとも聞きます。父に聞いた話では、昔は市内で行き交う方の中にも、あの日に負った傷がハッキリと分かるような方もいたといいます。


 ───あの日あった惨劇を怖がるのではなく、その後の人々の生活に目を向けなさい。


 幼い頃から私は、父にはそういった風に言われて育てられてきました。

 確かに、あの日広島の街で起きた惨劇を知ることは大切。

 その悲惨さから目を背けてはいけない。

 だが、それではなお、その後たくさんの人々があの街で立ち上がり、懸命に生きてきたという事実。

 そのことを知ることが、「広島の人間」として生きることだとも教えられてきました。

 きっと、多くの方が今もその考えでいるために、今でも広島の街ではあの日の出来事が暮らしに根差した物として語られているのではないのでしょうか。

 私は昔から父と意見や考えの違いから対立することも多く、正直私の中での父の印象は、それほどよいものではありません。

 それでも、この教えにだけは未だに心から同調できると思っています。



 こういう父を持ちました故、私は戦争を知らない二十一世紀生まれとしては、かなり戦争や平和という物を意識した幼少期を過ごしていたのではないかと思います。

 小学校に上がる前からこういった話を聞かされて育ちましたし、あの日の惨劇を描いた映像作品なども普通に見せられていた気がします。ただ、父も私にいたずらに恐怖心を植え付けるだけにならないよう、それなりに気を配っていたようです。

 とはいえ相手は十にも満たない子どもです。正直幼き日の私の記憶では、恐怖心が多くを占めていることは言うまでもないでしょう。それよりもう少し大きくなってからの記憶ですが、私は未だに平和記念資料館で見た蠟人形の姿がありありと脳裏に浮かんできます。

 私が父の言葉の真意を理解できるようになったのは、本当にここ数年のことです。

 それを助けることになったのは、私がした「とある経験」なのではないかと思います。



 私は約十年前、とある大病を患いました。

 病名は、白血病。

 そう、まさしく七十余年前、広島の街で多くの人間の命を奪ったあの病です。

 発症当時、私はまだ九歳でしたが、父から広島の話を聞いて育った子どもには、その病はとても聞き覚えのあるものでした。私が告知を受けた時、亡くなるまで折り鶴を作り続けた佐々木禎子さんの話が思い浮かんだことを、今でもよく覚えています。

 この後、自分がどうなるのか。

 幼いながらに、私はそれを「死」という言葉と結び付けてハッキリと悟ることができました。

 在りし日の惨劇が原因で、どれほどの人々がこの病に苦しめられてきたか。

 どのように命を落としていったのか。

 それ見聞きしてきた私にとって、その病名は、死と同列に並べられるべき言葉でした。

 幸いなことに、今は医学の進歩により、この病は不治の病ではなくなりつつあります。

 ただ、今も広島では死病の印象が強いようで、私の病を知った親類は皆一様にこの世の終わり、といった顔をしたと聞きます。あの日の惨劇に巻き込まれた人から産まれた子が、いわゆる「二世」として特定の疾患になりやすくなる、といった話もよく知られている土地柄です。現在この病に罹る原因は未だ不明な点が多いのですが、親類の中には私の病を、遺伝からくるものではないかと邪推した者も多くいたとも聞きます。



 結局、私は一年近い入院生活を送ることになり、その後も四年近く治療を続け、幸い今ではほとんど普通の生活を送ることができています。

 ただ、あの閉塞感漂う闘病生活の中で味わった、じりじりと命が擦り減っていくような感覚というのは、今でも私の中に深く刻み込まれています。

 かつて同じ病に蝕まれた方々が、どのような気持ちで日々闘病してきたのか。

 経験者として、今ならばいくらか思いを馳せることはできますが、それとて真実には遠く及ぶものではないのでしょう。

 ただ、私の死生観の根幹、ひいては物書きとしての淵源は、あの入院生活の中にあるのではないかと思っています。

 あくまでも結果論ですが、この経験も、決して悪いことばかりではなかったと思っています。

 私が歳を重ねたこともあるのでしょうが、この経験がなければ、私にとって毎年の父の黙祷も、広島の話も、今以上に遠い存在であったと思うのです。



 残念ながら、七十七年を経てもなお、世界には平和とほど遠い状態の地がいくつも存在しています。そして、今やその魔の手は我が国にさえ忍び寄りつつあるように思われます。

 だからこそ、広島に縁を持つ者として、あの病を経験した者として、ペンを持つ者の端くれとして、自らの考えを文字にしておくべきなのではないかと思っているのです。

 理想論ではなく、昔話でもなく、生活に根差した、現実の話として。

 所詮は私の思い上がりなのかもしれません。

 さも全てを知ったかのような気になって、上滑りな言葉を並べ立てているだけなのかもしれません。

 でも、たとえそうだとしても、何も知ろうとしないよりかは遥かにいいと思うのです。

 

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『父の黙祷』 駿介 @syun-kazama

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