第29話
東京へ帰る日の朝、彼は寺へ来た日と全く同じように座敷に座って水野住職と向かい合った。庭の木には鮮やかな色をした小鳥が止まって、何かの実をしきりにつついていた。
水野住職は彼に笑いかけると、
「3週間ほどの短い間でしたがお疲れさまでした。藤本さんにとって、何か得るものはあったでしょうか?」と尋ねた。
「本当にお世話になりました。」と言って頭を下げてから彼は苦笑いして、
「何も分からなかった、というのが正直なところです。でも、自分は頭で考えていても答えを出せるような賢い人間ではない、ということはよく分かりました。」と答えた。
水野住職はそれを聞くと少し驚いた表情になって、「ほう。」と言った。
「どうしてそんな風に思ったんですか?」
その時庭の木にとまっていた小鳥が飛び立ち、その勢いで枝がブルっと揺れるのが見えた。
「この夏、僕は色んな人に自分の悩みを打ち明けてきました。自分が生きる根拠ってなんなのか、人生とは何なのかが分からないと。その人達が教えてくれたことは本当に素晴らしくて、はっとさせられるようなことばかりでした。でもそれを聞いても自分の中では何だか腑に落ちなくて、結局どうすればいいのかが分からなかったんです。」
彼はそこで一息つくと、口を結んで水野住職の方を見た。住職は腕を組んで、ひとつ小さくうなずいた。
「それでここへ来て座ってみて、結局よく分からないことは今でも変わらないんですけど、ただ頭で考えていても先へ進めないみたいだって、ある晩に外の景色を見た時に、ふとそう感じたんです。」
水野住職は「そうですか。」と言うと、優しく笑った。
「藤本さんは、とても大事なことに気づいたのかも知れませんね。般若心経に、『色即是空』という言葉があります。これはあらゆるものには実体がない、つまり、『自分』にも実体はない、ということなんです。その『自分』にとらわれるからこそ悩みや苦しみが生まれる。しかし、頭で考え続けても『自分』や『自分の思い』から離れることは難しい、ならば座ったり体を動かしたりして、思いから離れるということは、有効な手段ではないかと思います。」
水野住職は寺の前の所まで彼を見送ってくれた。彼はその姿を何度も振り返りながら、山道を下って行った。
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