第28話
その後も彼は規則正しい生活を続け、座禅に打ち込んでいた。花火大会を一緒に見てから1週間ほどで荒木さんは寺を去り、彼は住職と二人きりになった。しかしどれだけ座禅を続けても、彼が自分が前に進んでいるという感覚を掴むことはなかった。
彼が座禅を組んで目を閉じた時、決まって漠然とした不安が彼の心を支配し、彼はそれを振り払おうとしては集中を乱した。この夏に感じてきたこと、それは生きることは訳が分からないということかも知れなかった。
人がこの世に生まれてくるのは自分で決めて生まれてくるのではない。ただ気が付いたら生まれてきてしまったというだけだ。でも人はそんな訳の分からない世界をそのまま受け入れて生きて行くしかない。どんなに人類が進歩して生活が豊かになろうとも、その事実から逃げ出すことは出来ないのだ。そんな理不尽を、不安に感じるのはいけないことだろうか?
そんなことを考えていたとき、彼の肩に痛みが走った。水野住職からの警策が飛んで来たのだった。
夏も終わりに近づいてきた頃のある日の夜、彼は部屋で本を読んでから眠りにつこうとした。しかし、明かりを消した後も彼はなかなか眠ることが出来なかった。
布団の中に1時間ほどいた後に、彼はついに諦めて起き上がった。枕元に読みかけの本は置いてあったが、今から読書を再開する気にはなれなかった。
ふと窓の外を見ると、月が明るく輝いていた。
この月明かりの下で座ってみるのも悪くない、と彼は思った。
布団の上に座って姿勢を正してみると、眠れずに苛立っていた心が、段々落ち着いていくのが分かった。彼は半分ほど目を開けた状態で月の光を感じながら、そのまま心を深く静めて行った。
座禅を組み始めてから、しばらく時が流れた。
夏の夜の空気は凛として澄んで、彼の心を研ぎ澄ませた。
暗闇の中で、彼の耳にはどこからか虫の鳴く音が聞こえてきた。それは、少し開いた窓の外から聞こえてくる鈴虫の鳴き声だった。
彼の気付かぬ間に、秋が近づいて来ていたのだった。
その声を聴いた彼は思わず頬を緩めると、目を開けて大きく息を吐いた。
彼は気が付いたのだった。自分が未だ来ない先のことを心配するあまり、すぐ近くで起きている変化にすら気付くことが出来なくなっていたことに。
彼は組んでいた脚を伸ばし、ゆっくりと立ち上がって窓の方へと向かった。ひたすら座禅をしてきたおかげなのか、その頃にはもう脚の痺れは気にならなくなっていた。
彼は窓辺から、夜空に浮かぶ下弦の月を見上げた。
月には薄らとした雲がかかっていたが、彼がじっと見つめているうちにやがて風に流されて月の全体が顔を出した。
眼下では、風が木々の葉を静かに震わせていた。
その時彼にようやく分かったことがあった。自分はこの移り変わる世界のほんの一部であり、ただ流れのままにあるのだと。
「自分はこのまま生きる根拠を探し続けても、永遠に見つけることなんて出来ないだろうな。」と彼はぽつりとつぶやいた。
それは悟りと呼べるほど圧倒的なものではなく、むしろ諦めに近い感情だった。
しかし不思議なことに彼の心は今までになく満たされていた。生きる意味って探し回るようなものではなくて、気が付いたらそこにあるようなものなのかも知れない、と彼は思った。
彼は布団に潜り込んで今度はすぐに眠りに落ちた。
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