第12話

それから1週間が経ち、彼は夕方の信濃町駅で松岡さんが来るのを待っていた。

8月に入ってからも相変わらず猛暑が続いていたが、午後5時を過ぎるとそんな暑さも少しは和らいでいた。

彼が道行く人々を眺めていると、背後から

「ごめん!待った?」という弾んだ声が聞こえた。

彼は声の方に振り向いて、思わずはっと息を飲んだ。


松岡さんは、目に鮮やかな浴衣姿をしていた。

白地に青い花が描かれたその浴衣は、彼女の周りの空間に風鈴の様な涼を感じさせていた。

彼が驚いて、

「何で浴衣なの?」と聞くと、松岡さんは笑って

「調べたら、今日神宮が浴衣の日だって書いてあったから。」と答えた。


「どうかな?」と言って彼女はくるりと1回転してくれた。

彼は少しの間見とれていたが、やがて

「すごく、似合ってる」と自分に言い聞かせるように言った。

松岡さんの肩までの黒髪や細い首筋は、これ以上ないくらい浴衣に良く合っていた。

彼女は、まるで日本の昔の小説から出てきたかのように、凛として美しく見えた。


「じゃあ、行こっか?」と言われて彼はふと我に帰り、

「あ、うん。」と答えた。

楽しそうに歩き始めた松岡さんを見て、彼は中学生の頃に感じたような、純粋な気持ちを思い出した。


神宮球場に入ると、松岡さんの言っていた通り周りには浴衣姿の女性が多く見受けられた。

座席は既にかなり埋まっていて、夕暮れ時の球場は人々の熱気で包まれていた。その熱気の中へ溶け込むように、2人は三塁側の座席へと腰を下ろした。

「藤本君って、野球よく見るの?」と松岡さんは彼を見て尋ねた。

「いや、全然。今回のチケットも知り合いの人に貰って。」と彼は笑って答えた。

「松岡さんは、野球観に来たことある?」

「私は子供の頃よく観に行ってたよ。お父さんが巨人ファンだったから。」と彼女は懐かしそうに言った。


「私、あの頃のジャイアンツが好きだったの。重量打線って呼ばれてた頃の巨人。」

「じゅうりょう打線?」

「そう。ピッチャー以外は全員ホームランが打てるバッターって感じの打線。松井がいて、ヨシノブがいて、見ててワクワクしたの覚えてる。」

「すごいね、それ。」


彼はその時、昔野球を観に行った時のことを思い出した。

「そう言えば小学校に上がったくらいの時に、俺も東京ドーム行ったことあるわ。松坂のデビュー戦だった気がする。」

「デビュー戦でいきなり155キロ投げたっていう試合?」

「それかな?俺、途中から寝ちゃって試合の内容はよく覚えてないんだよね。」

「それ、残念だね。結構有名なシーンだよ?」と言いながら松岡さんは楽しげにうちわを扇いでいた。

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