第11話
それから一週間ほどの間、彼は眠れない夜を過ごしていた。
ベッドの中に入って明かりを消すと、いつか訪れる死の存在が否応なしに頭に浮かんで来るのだった。
「別に、今日明日に死ぬって訳じゃないんだ。」と彼は何度も自分に言い聞かせた。しかしどれだけ言い聞かせようともその重苦しい感情は消えず、むしろその存在感を強めて行くようにすら感じるのだった。
そんなある日の夜、彼はいつものように居酒屋でバイトをしていた。
7月末の雨の日で客足は普段より少なかった。カウンターの一席には園田がやって来て、店長の中田さんと話しながら1人で飲んでいた。
園田は彼が働いているのを聞きつけて2か月程前に初めて来たのだが、中田さんと意気投合したのか最近では毎日のように顔を出すようになっていた。2人は飽きもせずいつもパチンコと競馬の話をしていた。彼はそんな園田をやれやれと思いながら見ている事が多かったが、その日は馬鹿みたいに笑っている園田を見て何故かほっとする様な気持ちになった。
夜11時を回ると、客は園田を残してほとんど居なくなっていた。
彼がテーブルを拭いていると、後ろから中田さんが、
「もう上がっていいぞ。」と声をかけた。
「あ、了解です。」と彼が返事をして荷物を取りに行こうとした時、
「藤本ちょっと飲もうぜ。」と園田が彼に言った。
帰っても寝るだけだしまあいいか、と彼は思った。
彼が園田の隣の席に腰を下ろすと中田さんが
「これ、サービスしてやるよ。」と言ってビールと焼き鳥を出してくれた。
バイト終わりに飲む冷えたビールは、ただ驚くほど旨かった。
彼が飲み始めた時には園田は既にかなり酔っていて、
「店長!」と大きな声を出した。
「どうした?」と中田さんは皿を拭きながら答えた。
「店長、最近なんか藤本元気ない感じしません?」
「確かに顔色悪いな。女にでも振られたか?」と言って中田さんはニヤリと笑った。
彼は思わず飲んでいたビールでむせそうになったが、何とかこらえて
「いや、振られてはないっすよ。」と苦笑いして言った。
「むしろ、それはこれからって感じで。」
「お、いいじゃん。この前話してた子だろ?」と園田は彼の肩に手を回してきた。
その手を軽く払いながら、彼は
「まあそれはいいんですけど、最近何だかよく眠れなくて。」と言った。
「何かあったのか?」と中田さんは皿を洗う手を一旦止めて言った。
彼はこの所の悩みを話すべきか少し迷ったが、中田さんなら真面目に聞いてくれるかも知れないと思った。中田さんは普段はふざけた話ばかりしていたが、困っている人にはとことん優しい一面があった。
「この間祖父の葬式の時のこと思い出してから、自分もいつか死ぬっていう事実が頭から離れないんです。まだハタチの自分が言うのも変な話なんですけど、夜中になると考え込んで、どうしようもなく怖くなるんです。自分が今生きてる根拠なんて何かあるのかなって考えたり。自分でも馬鹿げてるとは思うんですけど、考え始めると止まらなくなっちゃうんですよ。」と言って彼はため息をついた。
中田さんは、腕を組んで彼の話を聞いていた。
園田はサービスのつくねを頬張りながら、
「まあ、生きてる根拠なんて俺も特にないけどね。」とモゴモゴと言った。
中田さんはやがてため息をつくと、
「藤本の気持ちも、全く分からんでもないなあ。」と言った。
「ほんとですか?」と彼は少し驚いて尋ねた。
「俺ぐらいの歳になると、守るべきもんが増えてくるんだよ。嫁とか、子供とか。そうなると人間ってのは段々臆病になって来るもんなんだよな。」
「はい。」
「今俺が倒れたら、うちはどうなる?終わりだな、って考えると、ただ怖いよ。恐怖しかない。」
「そういう時はどうするんですか?」と彼は尋ねてみた。
「どうも出来ないさ。」と中田さんは笑って言った。
「ただよく考えたら、失うのが怖いと思えるものが自分にあるっていうのは、実は幸せな事なんだよな。そこに気づけば、今の幸せを感じて生きようっていう気持ちになれるんだよ。物事っていうのは常に表と裏がある。だからなるべくその良い方を見るようにした方がいい。」
中田さんの話は、彼にとって今までにない考え方だった。
「なるほど、そういう考えもあるんですね。」と言って、彼は何度も頷いた。
少しではあったけれど心が軽くなったような気がした。
ふと横を見ると、園田はカウンターに突っ伏して寝息を立てていた。
彼はその後しばらくの間、寝ている園田を横目に2杯目のビールを飲んでいた。
天井付近に取り付けられたテレビは日付が変わる前の今日一日のニュースを流していた。お年寄りから金を巻き上げたとして詐欺グループのリーダーが逮捕されていた。動物園ではパンダの赤ちゃんが生まれ、公募でカタカナの名前が付けられていた。
「藤本」と声を掛けられて彼が中田さんの方を見ると、中田さんは何かのチケットを手にしていた。
「これ、やるよ。」
彼が受け取って見てみると、それは野球のチケットだった。神宮球場で行われるナイターのヤクルト―阪神戦で、日付は1週間後だった。
「いいんですか、もらって?」と彼は中田さんを見上げて聞いた。
中田さんは東京育ちなのに熱狂的な阪神ファンで、チケットが手に入った時には店を閉めてまで応援に行くような人だった。
「その日ちょっと外せない用事が入ったもんだから。俺からのボーナスってことで。」と言って中田さんは笑った。
「あ、じゃあありがたく頂きます。」と言って彼はその2枚のチケットを眺めた。
でも俺野球良く分かんないんだよなあ、と彼は心の中で呟いた。
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