第13話
試合が始まると、松岡さんは彼が想像していた以上に熱の入った応援をしていた。彼女が根っからの野球好きであるという話は本当のようだった。彼は特定のチームのファンではなかったので、点数が入るたびにとりあえず喜んでいた。
3回の裏になると、神宮の夜空の下にナイターの照明が煌々と灯った。彼は近くにいた売り子さんを呼び止めて、ビールを注いでもらった。
「松岡さんも飲む?」と彼が聞くと、彼女は
「私、まだ19だから。」と笑って同じ売り子からオレンジジュースを買った。
「そっか!まだ誕生日来てなかったんだね。」
「うん。でももうすぐだよ!8月の終わりだから。」と言って、松岡さんはジュースをごくりと飲んだ。
「どう?ハタチになって。」
「うーん、特に変わりないよ?ビール飲むようになった位かな。」
「きっと、そうだよね。」と言って、松岡さんは外野の方を見た。
「自分が大人になるなんて、信じられないよね。この間高校野球観てて思ったんだけど、この子たちみんな私より年下なんだって考えたら、不思議な気持ちになった。」
「確かに、びっくりだよね。子供の頃とか、甲子園に出てる選手すごく年上に思えてたけど。」
彼も、松岡さんが見ている外野の方を眺めてみた。
照明に照らされた人工芝の上に、レフトを守っている選手が小さく見えていた。
そのあと彼は、松岡さんが、「継投のタイミング遅いなあ。」とか、「今の右打ち上手かったね!」と言って試合の解説をしてくれるのを感心しながら聞いていた。
試合は、7回の裏に満塁ホームランが飛び出した所で、勝敗がほぼ決した様だった。
そのホームランは美しい放物線を描いて、観客で埋め尽くされたライトスタンドへと消えて行った。
ふたりは8回の表が終わった所で、球場を後にすることにした。
ゲートを出てから少し歩くと、先ほどまでの喧騒はまるで嘘のように消えて行った。道路の両側に植えられた街路樹を、背の高い明かりが優しく照らしていた。
「ねえ、ちょっと話さない?」と松岡さんが言い、彼らは道路脇に置いてあるベンチに腰を下ろした。
「久々に野球観れて、楽しかった。」
「本当に?それなら良かった。」
「うん。出来れば、もっと接戦なら良かったけどね。」と言って、彼女は彼に笑いかけた。
「確かに、結構点差付いちゃったよね。」と頷いて、彼は空を見上げた。夏の夜空には、おぼろげに光る三日月が浮かんでいた。
「何だか信じられないな。松岡さんと野球観る日が来るなんて、夢にも思ってなかったから。」と彼はぽつりとつぶやいた。
「ね!なんだか不思議な感じ。」と松岡さんは答えた。
「お互い大人になって、ふたりで会うなんて、考えてもなかった。」
「まあ厳密に言うと、そっちはまだ19じゃない?」
「そこは、四捨五入でいいでしょ。」と言って、彼女は彼の肩をぽんと叩いた。
彼はふっと笑って、
「でも、俺なんかより松岡さんの方がずっと大人だと思う。」と言った。
「えー?そうかな。」
「うん。中学の頃、学級委員だったし、勉強も1番で、いつもすごいなあって思ってた。何でも出来る完璧な人って感じで。」
すると彼女は驚いた様子で、
「全然そんな事ないよ!」と言った。
「私なんて大したことないよ。ただあの頃は、両親の期待に応えなきゃって、必死だったの。いい成績を取らなきゃ、自分の価値なんてどこにもないんだって思ってた。だからどんなに良い点数を取っても、この先成績が下がったらどうしようって、いつも不安だったの。」
そう答える彼女は、どこか寂し気な表情を浮かべていた。
「そうだったんだ。」と彼は答えた。彼の記憶の中の松岡さんは、自分の勉強は余裕でこなして、試験前には周りの友達に教えているイメージだった。でも実際には、彼女はプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、もがいていたのだ。
「でももし俺だったら、どんなに言われても必死で勉強するなんて、出来なかったと思う。だからやっぱりすごいよ。」と彼は言った。
それを聞くと松岡さんは、
「ありがと。そう言ってもらえると、少し救われたような気がする。」と言って、微笑んだ。
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