20220810

今日、ぼくは『片岡義男エッセイ・コレクション 本を読む人』を読んだ。この本の中で片岡義男は「本を読むとき、僕は対話をしている」と語っている。多少カッコつけた言い方をすると「自己内対話」という作業を片岡は行っているということになる。この書き方に最初ぼくは面食らってしまった。自分で書いたものを読み返すのでない限り、読書とは他者のテクストと出会う作業ではないだろうか。そして、他者の思考の軌跡としてのテクストを読みながら自分の中の思考をバージョンアップさせる作業ではないだろうか、と思ったのだ。


しかし、少し考え直してみた。ぼくは本を読むことで何事かを考える。それは上に書いたように確かに他人のテクストが発端となって始まる思考なのだけれど、その思考を練っているのは自分自身である。当たり前だけれど人は皆「自分の頭で考える」。その時、「自分の頭」の中から思いもよらない事柄が湧いて出ることがある。これもカッコつけた言い方をすれば「自分の中の他者性に震撼する」ということでいいだろうか。そう考えれば「自分の中の他者」と自分は読書を通して対話している、ということになる。ゆえに片岡の言葉は正鵠を射たものであるのかもしれない。


ところで、ふとぼくはこんなショーペンハウエルの言葉と出くわした。「読書は、他人にものを考えてもらうことである」。つまり、ぼくの中に流れ込む本は確かに片岡義男の思考であり、ぼくが苦吟して考え抜いて編み出した思考ではない。ゆえに、ぼくは読書を通して片岡義男の猿真似をしているかもしれない、ということになる。その意味でぼくはショーペンハウエルに賛同する。あまり本を読みすぎていると、自分の自律して発展する思考を育てられないまま他人の意見の口真似をしてしまう人間になりうるかもしれない。これは自戒を込めて考えなければならないことだ。


しかし、それでもぼくは本を読む。それは読書は結局は他人が考えたものをなぞる作業にすぎないにしても、ならば読書をしないぼくの中から真に斬新でオリジナリティがあるアイデアが湧いて出るなんてことが起こり得ないと思うからだ。あるいは、ぼくはならばとことん片岡義男の口真似をしてやろうというようなひねくれたことを思ってしまうからだ。幸いにして、というべきかぼくは片岡義男ほど英語が堪能ではないしモテるわけでもない。だからどうしたって片岡義男の完コピはできない。そして、その「完コピできない」現実の中からこそ真にぼくらしい表現は生まれ出るのかもしれないと思うからだ。

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