鯖を読む

踊る猫

20220807

ぼくは今年で47歳になるのだけれど、この年齢になって本を読むのは結局どういう意味があるんだろうか、と考えてしまう。ぼくは幸か不幸か「宿題」や「仕事」で本を読む境遇にあるわけではないので、完全に暇つぶしで、つまり何ら義務に拘束されず本を読んでいる。自由な時間を(「読書が楽しいから」という積極的な理由と「他に時間のつぶし方を知らないから」という消極的な理由で)読書をして過ごしている。この年齢になってみると今さら本を読んで何者かになろうという気も起こらない。ただ、性分で読むだけなのでそこに深い意味があるかどうかはあまり考えていないのだった。


今日、ぼくはちくま文庫から出ている『梶井基次郎全集』を読んでいた。この本は実は古本屋で140円で買った、かなり日焼けしたシロモノだ。もちろん稀覯本というか貴重な本ではない。ぼくはそんなに梶井基次郎が好きというわけではないのになぜこんな本を持っているのか自分でもわからない。ただ、梶井基次郎があれば暇つぶしになるだろうと思って買ったのだと思う。その『全集』を読み進めている。有名な「檸檬」や「桜の樹の下には」を読み、そのミクロに動く感受性に今で言うところの「HSP」だったのかもしれないな、と粗く考えてしまった。


本を読むことにそんなに大層な意味を見出しているわけではなく、むしろ「本の虫」と呼ばれる人たちは実はぼくは苦手だったりする。ぼくの本の読み方があまりにも荒っぽいので、他の人の律儀で真面目な読書とは水と油かもしれないとあらかじめ警戒心が働くところがあるのだろう。ただ、だというのであればぼくのような本の読み方も大仁田厚的な「邪道」として立派に通用するのかもしれない、と思った。いや、単に開き直っているだけとも言えるのだが、だとしたらこれが私の生きる道、と言うしかないので謝らなければならない。


この世に本はそれこそ無数に存在し、その内ぼくが出会えるのはほんのひと握り。しかもこちらのコンディションによって本はその色彩を変える。本を読んで何事かを考えるということはまさに「一期一会」なのだと思う。今日はたまたま坂本龍一とアルヴァ・ノトが共演したアルバムを聴きながら『梶井基次郎全集』を読み進めてきたのだけれど、明日になればまったく違うことを考えているかもしれない。今日書いたことも全部忘れて「なんて鈍感な作者なんだろう」と考えているかもしれない。こう考えて、ぼくが書評家になれない理由がよくわかったような気がする。

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