夏風船は欲望

熊雲

夏風船は欲望

 夏、僕は風船を飛ばした。

 赤く膨れた一つの風船は、ぽわりぽわりと空高く昇っていく。


 無いはずの天井にぶつかった風船の中には、僕のフラストレーションがぎちぎちに詰め込まれている。


 最高気温四〇度超えを予想された真昼の日差しは、水分をじりじり奪っていく。身体が怠い。どうやら、ひどい暑さに少しやられたようだ。


 ぼうっとした頭で落ちてくる風船を眺めていると、しばらくして、背後から声が聞こえた。


 振り返ると、めぐみが眩しい笑顔でこちらを見つめ、スポーツドリンクのペットボトルをこちらへと突き出していた。


「ねえ、ぼーっとしてるけど、大丈夫? はい、これ」

「うん、ありがとう。大丈夫」


 彼女から受け取ったスポーツドリンクの冷たさが、僕の意識を現実へと引き戻す。

 彼女のこの気の利きように僕は感心した。彼女は僕と同い年だけれど、僕なんかよりよっぽど大人で、人格者だ。


「暑いね〜」


 彼女がそう言って笑った。

 ああ、暑い。笑えないくらいに。


 とっくに頭は熱におかされていて、身体中の血液が沸騰する妄想をするくらいに仕上がっていたが、辺りには日陰なんて無いので、耐え続けるほかない。

 厳密にいえば、日陰が全く無いわけではないが、そこに隠れても大して意味のないようなものしかない。


 風船へ視線を戻すと、僕の背の高さにまでゆっくりと落ちてきていたそれは、風船とはまるで異なった形容であった。


 燃えるような赤色のそれは、元の五倍以上に膨れあがり、ドクドクと脈打つのが見てわかる。血が通っているみたいだ。

 それがれる瞬間は、地面に触れたときなのだと僕にはなんとなくわかった。


「ねえ!聞こえてる?」


 恵が汗に濡れた肌を輝かせ、汗で透けた白いシャツから下着を浮かし、豊満な胸を縦に揺らし、スカートを翻し、可愛らしい顔と潤んだ瞳、それと愛らしい唇で、僕になにかを言っている。


 熱で満たされた頭のせいか、僕の息は荒くなっていた。

 赤い塊は地面にどんどんと迫っていく。


「ねえってば!」


 恵の声は暑さに溶けて消え失せる。

 陽炎と意識が揺らめいて、僕は夏に取り込まれていく。


 脈打つ塊が地面に迫る。迫る。迫る。迫る。

 地面に触れた。


 その瞬間に、その塊は勢いよく破裂して、赤黒い液体が大量に飛び散り、あたり一面を一瞬で赤い水溜りに変えた。


 空を見ると、先程よりも青色が強くなっているように感じた。

 地面に溢れていた赤色も身体に浴びた赤色も気が付けば消えていて、残ったのは肌に残る不快感とむせかえるような夏の匂いだけだった。


 頭の中が一瞬白くなり、次に目を開けたときには、猛烈な倦怠感がひたすら身体を襲っていた。

 舌の上には甘酸っぱさを感じる。


 意識がはっきりと戻り、一番初めに僕の目に留まったのは、地面に転がる血の付着したペットボトルだった。

 後ろへ振り向くと、そこに恵を見つけた。


 頭部を赤く染め、横たわった姿の恵。

 シャツが捲られ、腹部が露わになった姿の恵。

 スカートが捲られ、パンツが右足首に掛かり、下半身が露わになった姿の恵。


 あちこちに砂を付けた、きらきらと光る肌。

 体液を溜めた、美しい臍。

 カンカンに照りつけられた、無造作に生える黒々とした陰毛。


 ピクリとも動かない彼女を見て、目が霞む。


 朦朧としたこの頭では事態の半分も理解できなかったが、それだけ理解できれば十分だった。

 頭のずっと奥の方が鉛のように重たくなって、そのうち身体は思うように動かなくなった。


 僕は跪き、呻き声に似た音を喉から鳴らす。

 脂汗に塗れた僕と恵だったその肉体が真夏の日差しに炙られ続けた。


 嫌になるくらいに晴れ渡った青空の下、暗澹たる夏を吐き出す僕を見て、琥珀色の蝉たちがゲラゲラと嗤っていた。

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夏風船は欲望 熊雲 @mogu2_panda

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