第3話 ゆめはまどべをすぎて
寝室前の廊下で手にしたスマートフォンを見つめたまま森ノ宮麻里子は呆然としていた。
通話を終えた画面はすでにホームに戻っている。
一体何がどうなっているのかと、押し寄せる混乱の波に叫び出したい衝動を押し殺して下唇を噛み締める。
日の落ちたばかりの瑠璃色の窓ガラスに自分の姿が映り込んだ。
本来の麻里子は、緑の黒髪になだらかな線を描く切長な瞳と小さく整った鼻筋も美しく、そこはかとないたおやかさを覗かせる大学生であった。ところが、今夜の彼女はといえば疲れ果て青ざめた顔に血走った眼、その下にはくっきりとクマが浮かび、ほとんど紫色の唇に乱れた髪が惨めに纏わり付いていた。
ややあって顔を上げると視界が回転し、麻里子は思わず壁に寄り掛かった。
瞼を閉じて歪みにをじっと耐えながら時を待つ。
明度の低い混沌に紛れた幻聴か、囁くような声が
(鉛のなかをちょうちょがとんでいく)
カーテンの隙間から朝日が漏れていた。
その背中には覚えのない毛布が掛けられていた。
暖房を切り、結露に濡れた窓を開けるとキンと冷えた空気に息が白く上った。
家の前を集団登校していく子供たちの騒めきが過ぎて行く。
麻里子はその行列をぼんやりと見送った。
早朝の透明な陽はほんのり色を持ち始め麻里子の顔をなぶっていた。
住宅街に日常のさざめきが徐々に満ちてくる。
いつものこのくらいの時間には丁度、隣の家では定年したばかりのご主人がゴルフのショット練習を始め、裏の家からは未就学児とその母親との悲喜こもごもの会話が聞こえてくる頃である。
麻里子は束の間、
と、無意識下の騒音に混じって馴染みある声に呼びかけられた気がした。
よもやと願いにも似た気持ちと、それをどこかで否定する自分を感じながらキョロキョロと室内を探る。
その視界に宙で羽を広げる蝶のモビールが映った。
天井からU字型の金具を三つ連ね、その両端に艶のある和紙で造られた青い蝶たちが魔法にかけられたように留まっている。
壁面の森ではウサギやクマなんかの動物が冒険譚を繰り広げ、真新しい勉強机の上の茶色のランドセルと、床に転がる虹色のユニコーンのぬいぐるみとが持ち主の帰りを待ち焦がれていた。
それから天蓋の付いたベッドに小さな影があった。
麻里子の六歳になる娘、有紗である。
安らかな寝息をたてるその容姿は麻里子には余り似ていない。
日の当たる場所でならその髪を栗色から金色に透かし、白というよりは奥から湧き立つような桃色の頬、冴えやかな薔薇色の唇、のみならず眉間の深い谷には壮麗な瞳をはるばるまつ毛の木立が連なっている。その姿はまるで誰もが知るおとぎ話から抜け出してきた異国のお姫様そのものであった。
風に吹かれ、カーテンが膨らむ。
閉ざした窓に鍵をかけ、麻里子はカーテンに手を掛けた。
すると閑静な住宅街にあって異質な向かいの空家の荒れ果てた庭が目に入り、思わず手を止めた。
しだらない庭木のそこかしこにかかる空漠をかろうじて蜘蛛の巣が繋ぎ合わせている。
傍若無人な雑草に傾倒しひび割れた鉢植えには青カビが繁殖し、いずれ家はすべての記憶を緑に飲まれ森に還るのだと麻里子には思えた。
と、不意に眠ったままの有紗が体をびくっと撥ね上げた。
同時に麻里子は不快な耳鳴りに襲われ、頭の中を掻き乱される。
――草と土とが混じった雨上がりの香りがした。
――濃い青色の空に真っ直ぐに伸びた飛行機雲が溶ける。
――縁側に置き去りにされた上製本のページが風に捲れる。
――軒先からぱたりっと滴が落ち、水溜りに波紋を描いた。
――辺りを覆う水鏡はリフレクション写真のように天地を入れ替える。
――緑の庭で藤のゆりかごは揺れる。
麻里子のスエットのポケットのスマートフォンが鳴った。
メッセージには一言『それで?』と問いかけられていた。
麻里子は深く息を吸って、長く吐き出すと慣れた手つきで簡潔に返信した。
『やっぱりダメみたい』
『世知辛いなあ』
『けど、もう少し頑張ってみようかと思ってるの』
『大学の方は大丈夫?』
『私は別にね、またしばらく休学したっていいんだし』
『何か手伝えることはない?』
『あっちゃんにはもう十分して貰ってるよ』
『遠慮してるつもり?』
『だって(汗マーク)』
『麻里子ちゃんは昔から自分のキャパの見積もりが甘いんだから』
身に覚えある返しに麻里子は思わず顔を綻ばせる。
“あっちゃん”とは麻里子の高校の同級生であり、大学在学中に妊娠し暫く休学していた麻里子が復学を決意するまでを後押しをした親友でもある。
古い慣習を残した田舎の封建的で複雑な家庭環境で育ったことから、世間知らずな癖に他人を頼ることが下手な麻里子にとって数少ない信頼のおける存在で、進学を機に家族と縁を切った麻里子に追随するように同じ街の専門学校に通い始め、卒業後は持ち前のコミュニケーション能力が活かされた結果、瞬く間に高級住宅街でも名高いヘアサロンを任されることになった辣腕家である。かねてより麻里子の絶対的味方であることを明言し、娘のことも子供は苦手と言いながら初めて髪を切った日以来、生涯専属を宣言して憚らない。
昨夜も有紗の抱える問題を理由に就学拒否された小学校についての相談を夜通し話明かしたばかりであった。
ともあれ、何と返信するべきか麻里子は思い倦ねた。
その時、衣擦れの微かな音を聞きつけ反射的に振り返る。
が、子供部屋はただ静穏を浸透させるばかりであった。
麻里子は寝息を立てる有紗の堅牢に閉じられた瞳にかかる前髪を分け、母娘として些少にも遺伝を認められる小さな手の丸い爪と外郭の尖った耳をなぞった。
締め付けられるような切なさに麻里子の指先は震えていた。
――風に吹かれ、カーテンが膨らむ。
甘い香りをはらんだ空気に胸が騒ぎ、麻里子は窓にかけた手を止めた。
眼下に大学キャンパスを埋める満開の桜並木が映る。
花冷えの晩春に行き交う人々の鮮やかな歓声の上に次々と身を投げる花びらの美しさは、人知れず消えゆくことを受け入れた清らかさを秘めている。
千紫万紅の景色は巡り巡り、やがては何が此処にあったのか知るものはないのだと麻里子は心づく。
閑散とした図書館の一角で目当ての本を手にした時、麻里子の背後から小波のような声が響いてきた。
麻里子は擦り切れた藍色の西田幾多郎全集第七巻を押し戻した。
覗き込んだ西洋哲学の本棚には三、四人の女子学生に囲まれた背の高い外国人男性が佇んでいた。
その人は赤茶けた革で装丁されたプラトンの『饗宴』の扉を開いていた。
そしておもむろに本から顔を上げて麻里子を見つけると、戯けたように目を見開いて微笑んだ。
スマートフォンが着信を知らせる。
そのはずみに麻里子は我に返った。
『それはそうと、例の話は考えてくれた?』
麻里子は図りかねた様子で考えを巡らせた。
『どうかな、環境を変える余裕はまだないかも』
『あの部屋マジで掘り出し物なんだからね!』
麻里子は腑に落ちないまま文字を打つ。
今親子二人暮らすこの家は、とある事情で知り合いになった岩永祥輔の所有する二世帯住宅の片側で、それを随分と破格の値段で借用していた。
新築の二世帯住宅にたった一人暮らす祥輔を不審に思わない訳ではなかったが、当時家賃滞納でアパートから追放寸前の状況下に置かれ、赤ん坊を抱えた如何にも訳ありの小娘に祥輔は事細かく事情を聞くでもなかった。その代わりに麻里子の方でも必要最小限の質問をするに留め、さっさと転居を決めてしまったのである。
いずれ状況が落ち着けば出て行くことを念頭においてはいたが、慣れない育児に懸命な日々を支えてくれたのは意外にも大家の祥輔その人であった。
あのまるで取っ付きにくい表情の乏しい男が、文句も言わずぐずる幼子をスリング掛けで何時間も揺すり続けてくれた姿を思い出すと、麻里子は今でも不思議な心持ちになる。
祥輔と麻里子の間にはそうやって重ねた日々があるのだが、あっちゃんは祥輔に対して未だに懐疑的な姿勢を崩さず、事あるごとに物件情報を送り付けてきては早急に引っ越すことを強く薦めるのであった。
麻里子の指先が送信ボタンをタップした。
『親子二人暖かいベッドで眠れるだけでも十分なのに、一緒に子供を見守ってくれる大家さんがいる物件なんて今時貴重でしょ』
『崇高な篤志家様なのかもしれないけど偶然知り合っただけの親子に普通そこまでする?』
『万が一にも何かある人なら有紗があんなに懐くはずないと思うけど』
『子供にそんなの見分けられないでしょ』
『あっちゃんは何が言いたいの?』
いつもなら間髪入れずに続くレスポンスが途絶え、数十秒の空白が流れた。
小首を捻ったままスマートフォンを見つめていた麻里子が諦めかけた時、着信が入った。
『とにかく、諸々作戦を練らないと』
『あっちゃん?』
『それじゃ、また後でね』
スマートフォンを伏せ、問いかけるように麻里子は部屋の天井で赤いランプを点灯させた監視カメラへ視線を移した。
PCの画面越しに麻里子と目を合わせた祥輔は表情を変えないまま腕を組む。
その時、ベッドの上で有紗が苦悶の表情を浮かべ何かを囁いた。
麻里子は閉じられた瞼の下で縦横無尽に眼を動かす有紗を観察した。
「また、夢を見てるのね」
有紗の柔らかな頬を撫でて麻里子は子守歌を口ずさむ。
*
――ひび割れた土壁と撓んだ低い天井の和室。
――四畳程の室内には、浮き出し加工の厚い哲学書や装丁の崩れた古書、日
に焼けた文庫本、表紙のない詩集、つぎはぎされた絵本などが所狭しと
堆く重なっている。
――本で編まれた塔の内で眠る麻里子の唇が微動する。
(私の不思議な苦しみはこれから起こります)
――麻里子の顔に影がかかる。
――眠ったままの麻里子に頭に押しつけられた柔らかな感触だけが残る。
――やがて影は微かな吐息を麻里子の耳元に残して消えた。
――まるで音はないのに、影の洩らしたその言葉を麻里子は承知している。
――横になったまま薄く目を開き、告げられた愛に微笑んだ。
「ええ、知ってるわ」
*
じっと有紗を見つめ、麻里子はその頭にキスをする。
「私も愛してる」
あの面影を遺す鼻梁の形も途上のこの赤い唇も、いずれより濃い血を浮かべるはずだ。
そうであってほしい。
麻里子は美しく成長した娘の姿をうっとり空想した。
有紗が眠りについてから、もう二ヶ月が経とうとしていた。
この病気が発覚して以来、その期間は徐々に長くなっているのではと麻里子は訝っている。
最初は他の子供よりも眠ることが好きなのだと思っていた娘を注意深く観察するうち、泣くたびに怒るたびに糸が切れた様に眠ってしまうことに気がつき、麻里子はひどく動揺した。やがて迎えた四歳の誕生日、祥輔から贈られたユニコーンのぬいぐるみに感激した有紗はその場で昏倒し三日三晩眠り続けた。
それから駆け込んだ病院で診断が出るまで眠れぬ夜は続き、ようやく解ったのは前例のない過眠症の一種ということだけであった。その後いくつもの専門医を巡りながら一年の半分以上を眠り続ける我が子に代わり麻里子は夜の夢を見なくなり、いつからか瞳を開いたままで虚実相半ばした歪な白昼夢に囚われるようになった。
抗えず長しえとたまゆらを彷徨う意識を肉体に引き戻しては、娘が此処に居ることを確認する麻里子の胸の内ではその都度に鮮やかな愛しさと憂いが込み上げる。
すでに窓の外には夜が訪れていた。
有紗は変わらず眠ったままで無垢な微笑みを浮かべていた。
また何も出来ないまま一日が終わろうとしている。
何かとても大事なことを置き去りに、近頃ではそれすらも幻であったかのように麻里子には感じられる。そして、ひどく疲れていた。
――芝生を踏み締めて走る泥だらけの素足
――火の中を駆けるように熱い身体
――これ以上ないほどに張り詰め、引き攣る肺
――力付き、膝をつく、青い地面が迫り来る
――霞む視界に影が差した
麻里子は祥輔に抱えら上げられていた。
浮かび沈みする朝日の差し込む廊下を進んで行く。
うつろな目では焦点がさだまらず、それでもどうにか抵抗だけは示そうと麻里子は懸命に意識を手繰り寄せる。
祥輔は眉間に深く皺を寄せ、子供部屋より奥向きにある主寝室のドアを足で押し開けた。
簡素なシングルベッドに麻里子は伏せられた。
枕に染み込ませるように深く息を吐いた時、記憶の彼方から唄の一片が流れ着いた。
(向こうの小沢に蛇が立って、八幡長者のおと女……)
耳をくすぐる低い男の声で次第先細ってゆくそれは麻里子がいつか損なった調べであった。
夢もなく意識を失っていく麻里子の頬を
風に揺れる天蓋の波間に記憶はたゆたう。
眠り続ける有紗の柔らかな頬を撫で、麻里子は子守歌を口ずさんでいる。
その傍で読みかけの本のページが捲れる。
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