第2話 ねてもさめても
無機質な白木の箱の前に岩永祥輔は赤い花を供えた。
約三十五センチ四方で組まれたそのキューブボックスが元々は何に使われていたのか祥輔にも覚えはない。けれど特定された宗教観のないのが気に入り、それは仏壇の代用品として静謐な寝室の片隅にさり気なく置かれている。
束の間沈黙していた祥輔が苦笑いを浮かべた。
口角を上げると右頬にうっすら笑窪ができるこの男は、身形こそ流行や社交を逸脱することなく配慮されてはいるが、色白で怜悧な細面に黒よりも濃い黒をした眼が訳なくこちらの深淵を覗かれている気にさせるきらいがある。
十分に間をとって、祥輔はほとんど誰かを宥めるように話しかけた。
「たまには趣向を変えてみるのもいいだろう?」
植物好きであった亡き妻早織のため、季節や好みを鑑みて花を飾るのは祥輔の日々のルーチンのひとつである。
今朝入れ替えた花は、早い時間から営業している行きつけの花屋でいかにも溌溂とした若い店員から勧められたグロリオサだ。
その花は、付け根から弓形になった鮮烈な深紅の花びらが踊るように波打つ縁に冴えた黄の尾を引く、まるで燃え尽きることのない炎のように見えた。
その熱に溶かされたように滴るガラスの花瓶の水を祥輔は指で拭った。
元々祥輔が花を愛で始めたキッカケは、雨天中止になったドライブデートの代わりに早織から簡単な生け花のレクチャーを受けたことであったのだが、後になって気を利かせたつもりで祥輔が活けたところで、感性がずれているだの愛がないだの、極め付きには貴方は何事においても思いやりが足りないのだと、ほとんど幻滅した顔を向けられた。
それではとあれこれ趣向を凝らしては玉砕を繰り返したが、ついには合格点を貰えないまま放り出されることとなった。こうなっては祥輔は妻の雛形に倣うより他ない。おかげで持ち帰った花の水切りを終えてからは特に慎重に傾向と対策を練る。そうしてざんざん迷った挙句、花瓶は長く湾曲した茎の長さを考慮しフラスコ型の手持ちの内でも一番背の高い物を選んだ。
祥輔はもう策は尽きた、というようにちまちまと花を弄んでいた手を離した。
はやり妻は気に入らないのか言葉を選んでいるのだろうと察し、話題を変える。
「そういえばあれだ君のお気に入りの、例の白磁はどこに置いたかな――」
と、また指先で花首を捻り、祥輔は言い訳がましく口籠る。
「――けどまあ、初めての花にしては及第点じゃないか」
寝室に合わせて広く設けた南向きの窓からのぞく青空は、散々迷った末に選ばれた多少黄味の強い素色の漆喰壁によく映えていた。けれど祥輔の眼には陽当たりも良くアースカラーで統一されているはずのこの部屋は、いつまでも天気にも時にも馴染むことなく眩みぼやけている。
何か予感めいた気配に振り返った祥輔の視線の先にはきっぱりと整えられたキングサイズのベッドがあり、その枕元に置かれたデジタルフォトフレームに夫婦の鮮やかな思い出が流れ始めた。
夏祭りに沸く神社の境内で、紺地に淡い桃と紫の朝顔を咲させた浴衣に山吹の帯締め、結い上げた襟足にうっすら汗を浮かばせ風車を手にした早織。
保育士として勤めていた幼稚園の子どもたちに囲まれ、人差し指と小指を立てて重ねた残りの指を突き出した手遊び歌を大真面目に目も口も惜しみなく開いて披露している早織。
プロポーズを受けた桜並木の道で、夫となった祥輔を見つめ今にも泣き出しそうに目を細めた早織。
鮮やかに表情を変える妻の面影を遠目に、祥輔はその場に虚にただぽっかり佇んでいる。
夫婦が共に生きた余韻に覚えず祥輔は手を伸ばした。
白磁の花瓶にマーガレットを生けている祥輔。
その背後から伸びた白い手がそっと花を奪い取った。
振り返り見つめた顔はハレーションを起こし、イマイチはっきりとしない。
わずかに確認できる口元が悪戯っぽくツンと尖った。
今にも陽光に溶け入そうな手を繋ぎ止め祥輔は力を込める。
祥輔は空白を補うように宙に視線を沿わせ、期待混じりに言葉を待った。
…………。
長い沈黙を噛み締め、祥輔は力ない笑みを浮かべた。
「昼には戻る」
祥輔が扉を閉めた室内に鍵のかかる音が響いた。
近隣の犬が狂ったように吠る遠音が聞こえてくる。
どこからか鳥避けのようなチカチカとした反射光が窓から暴れ込み、燃え立つグロリオサを透かして神聖な箱の内をも悪戯に照らし始めた。すると、その奥行きの影に隠されていた小瓶が光に呼び起こされたように姿を現した。
小瓶は分厚いガラスの本体がアルミの蓋で密閉され、薄い琥珀色の液体で満たされた中身に白く細長い何かが沈められている。それは、ふやけてはいるが滑らかな肌質を残し、光沢を残すコーラルの爪、華奢な第二関節で僅かに歪曲し、ピンク色の肉がチラと覗く第一関節の断面やや上部にごくシンプルなストレートラインの結婚指輪が嵌った人の指であった。
窓を揺らして厚い雲が流れていく。
と、太陽の目を盗んだ日照り雨がひとつふたつと窓を滲ませ始めた。
未だ部屋中に爪痕を残すように駆け回る光に小瓶も呼応し閃く。
その時、デジタルフォトフレームにアネモネの花束を抱えた早織の画像が表示されて停まった。
その手には瓶の中の指と同じデザインの指輪が覗いていた。
雨音に混じって耳障りな犬の遠音はいつまでも響き続ける。
質の良い北欧家具や雑貨で揃えられた一階のリビングは甚だしく潔白に埃ひとつなく、卒のない幸福の形だけが並べられた展示場のように生活の気配は感じられない。
木目の美しいナラのダイニングテーブルの上には未開封の郵便物と今朝の新聞が角を合わせて列せられていた。
ノート型のPCを携えやって来た祥輔が席につくと、おもむろにそれを開いた。
画面にはマス目状に大和塀に囲まれた一軒の外溝をぐるりと一周、隙間なく分断された映像が羅列していた。その外枠最下のコントロールバーの右端では絶え間なくカウントを続ける数字が表示され、映像がリアルタイムを流していることが見てとれた。
小さな黒い矢印が蠢き、コントロールバー内にある三角のボタンがクリックされた。
すると、全画面に漆黒を基調とした重厚な木製の外壁、二階部分は左右シンメトリーに丸窓と縦格子が設けられた和のテイストを残したモダンな邸宅が現れた。次に左右に隣り合った二つの玄関の正面、外側から臨む一階リビングの窓――と、PC画面上で邸の外周が次々と切り替わっていった。
黙々と作業を続ける祥輔の表情のない顔はブルーライトに染められ、より一層固く冷たく浮かぶ。
一通りの確認を終え、何の変哲もない日常に安堵した祥輔がほんの少しだけ表情を緩めた。
その手は無意識に胸ポケットに入れたあの寝室の鍵に触れていた。
完全分離型二世帯住宅として建てられたこの邸は、郊外の新興住宅地の中でも一等大きく立派で、間取りは左右対称に一階にキッチン、リビングダイニング、和室、納戸、バス、トイレが備えられ、玄関ホールにあるドアで隣と繋がっている。二階には主寝室と別に洋室が三部屋にトイレとクローゼットとベランダ。そして夢の棲家を象徴するような苔むした幽玄の庭が和室の広縁へと繋がる造りであった。
そもそもは二人姉妹の早織の家族を慮り、同居することを前提にその父母からの細々とした意向を優先し気前よく建てられたのだが、完成直後のこの家で早織が冷たくなって発見されたことで祥輔だけが一方的になじられ、けんもほろろに縁を切られた。
以来、一人で住むには広すぎることもあり壁を隔てた片側は知り合いの親子に貸し渡している。
――不意に、PCから話し声が聞こえてきた。
切り替えられた音の出処である映像『M2R』内で、こちらへ背を向けスマートフォンに耳に傾けた女性の後ろ姿が表示された。
仄暗い廊下で肩をすくめた女性は件の親子の母親の方であった。
母親は小さな声で早口にかつ途切れがちに何か言葉を発しては首を振る。
カメラの位置を操作した祥輔がその唇を読む。
――はい……あの、それは……いいえ……出来ればお願いします……
と、行き場をなくした空いている方の手が頬にあてがわれた。
すっかり青ざめた母親の何らかの混乱を押し殺した様子をじっと観察しながら祥輔はこめかみを親指で強く押した。
そうしておもむろに椅子から立ちがると踵を返した。
足音もなく影が影に消えた。
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