キンメリオイの国に飛ぶ蝶は
島江南佳
第1話 ゆめのまたゆめ
頬をすべる涙を指で追う。
ついと視界に捕らえた指先には銀色の光を閉じ込めた滴りが滲んでいた。
それが哀しみとわかるまで指を折り、そっと開きを繰り返す。
光はテラテラと輝き、痕も残さず消え失せた。
これまで装っていたものが否応なく流れ出す予感がした。
広い劇場内は観客で埋められていた。
薄暗い客席“22-K”で女は心ここに在らずと言った風に掛けていた。
背もたれに深く体重を預け、隣の空席を見つめる。
女の意識は胸の内に浮かんではゴボリっと弾ける固い感情の気泡に寄せられ、乾いた指先は粗雑に破られた半券の切れ目を何度も往復していた。
――周囲の客席から拍手と歓声が上がった。
舞台上では淡く明滅しながら上下する照明や幾重にも重なりぬるぬると揺れ動く袖幕、不規則に並び立った幾何学的な鉄のオブジェが妖しい森を形象化し、この先の物語の登場人物たちを惑わす元凶といえる黒いベルベッドのスーツを纏った恰幅のよい妖精王と、同じくイブニングドレス姿の沈魚落雁の妃とが、難解な痴話喧嘩を繰り広げる『夏の夜の夢』第一幕目が上演されていた。
不意に女の記憶を男の声が掠めた。
「俺、シェイクスピアって苦手なんだよね」
そうやって苦笑した横顔と、チケットを指先で弾く軽薄な癖とが列なって思い起こされ、女の内側はまた湧き立った。力加減を誤った指先が紙の端で切れ、細く赤い線を帯びる。
女は半券を丁寧に折りたたみポケットに入れた。
スポットライトの下で妖精王が強固な姿勢を崩さない妃に向かって嘆きの声を上げ、舞台上と客席を繋ぐ演出用の階段を二、三歩降りて頭を抱えた。
――客席では盛大な歓声が上がる。
女はその様子を対岸の出来事のように漠然と眺めていた。
すると、不意に目の端に揺れる小さな影を認め、そちらへ目を凝らした。
その影は薄暗い通路を軽快に跳ねていたかと思うと、突然屈んで客席の足元を覗き、きょろきょろと周囲を見回し、探し当てた空席の隙間に手を突っ込み、と忙しなく動き回っていた。
姿形からおおよそ女の子であろう。幼女というよりはおそらくは少女で、その周囲に保護者の所在を探ったが、舞台上の成り行きに夢中の誰一人として注意を促す者はないようである。
自分を呪うため息を吐いて女は立ち上がった。
徐々にはっきりしてくる少女の姿は小学校低学年程の体躯をしており、艶のある長い巻き髪にパールのあしらわれたカチューシャ、肌に浸透するように薄くなめらかなシルク生地に繊細な花びらの刺繍の入った純白のチュールドレスといった体裁が見てとれた。
どうもこれは面倒なことになるのではと女はまごついた。
――その一瞬、少女は霞のように消えた。
女は驚いて周囲に目を配った。
すると、案外間を入れず女の視線が背後のスロープの手摺りの上にいる少女を捕らえ、ほっと息を吐く。
この時なぜ少女を見失うことを恐れたのか、子供を見守る義務感若しくは庇護欲だったのか、どうにも心許ないまま女は足元のライトを頼りに少女へと歩み寄って行った。
少女は気もそぞろにスロープの上から両手で作った双眼鏡で劇場内をくまなく見回し、ややと何かに反応して顔を上げると女の目の前に飛び降りた。
少女の身を包むドレスのスカートの裾がふわりと空気を含み、水中に沈みゆくようにゆるやかに降下した。毛足の長いえんじ色の絨毯に裸足の指はとろ…り埋没した。
暗がりに白く浮かぶ少女の丸い足の指に暫く注視し、ぎこちなく女が微笑みかけた。
そして、その背丈に合わせ屈み込むと努めて小さな声で話しかける。
「こんばんは」
すると、少女はきゃあっと猫のような叫び声を上げ、劇場を貫くように伸びた通路を一直線に、そのまま舞台上へと向かって行く。
女は思わず顔を顰め、しばらくの間身を縮めた。
が、場内には非難の声も尖った感情の波も立たなかった。
スポットライトの下にやって来た少女を造作もなく妖精王が抱き上げた。
微笑みを浮かべた妃も少女に手を伸ばし、妖精王と妃との小競り合いが始まった。
そのひとつづきに女は呆気に取られていた。
立ち尽くす女を見取った少女が、痴話喧嘩を続けている妖精王の腕をすり抜け、舞台上から女の方に手を振る。
「ねえーっお姉ちゃんも楽しい」
劇場内に響き渡る少女の声に女が怪訝な表情を浮かべた。
それでも尚、観客たちはこの動静に意識を向ける様子はない。
異様な具合に言い知れない感情が腹の底から湧いてくるのが感じられた。
一方の少女はと言えば自ら投げかけた質問への返事も待たず、既に客席通路でスキップを始めていた。
そして、恍惚の表情で舞台上で繰り広げられる物語に酔いしれる大人たちの周囲を跳ねながら少女は笑い出す。
「面白いでしょ、みんな変な顔してる」
女は幼い子供でもわかるであろう説明を探した。
「それは――」
言い知れない焦りが迫り来るのが感じられた。
何か決定的な口にしてはいけないことがあると直感した女はこの場を取り繕うための手管を探した。そして、とにかく思いついた言葉を発しようと薄く口を開いた。
すると、少女は女と同時に唇を動かした。
「「どうして」」
女は思わず口を閉じ、少女はくるくるとその場で回転した。
自らの尻尾を追う子犬のように回転を続けながら少女は女に問いかけた。
「お姉ちゃんはどうして見ないの」
少女からの問いかけに舞台上へちらっと視線を向け、女は顔を顰めた。
――脳裏に途切れ途切れの光景がチラついた。
あの日の照明はもっと煌々としていた。
舞台の中央には継ぎはぎの張り物の大樹と右に傾いた満月。
キトン風の布を巻きつけ、つるりと禿げ上がった頭に髭という騙し絵のような仰々しい妖精王と、舌足らずな声で甲高く鳴く雛鳥のような妃。
――最低最悪の『夏の夜の夢』を観たあの夜のこと。
女は息を詰めながら言葉を探す。
「私は……」
不思議そうに少女が女をじっと覗き込んだ。
「変なの」
少女は無邪気に笑った。その残酷さにいたたまれず女は俯いた。
と、いつの間にか眼下間近にまで迫っていた少女と目が合った。
至近距離で交わったその不思議な色をした大きな少女の瞳。
女はそこに映り込んだ自分の姿が無重力に弄ばれて流されていくような気がした。
榛色に広がる虹彩の銀河には緑の雲がたなびき、惑星の夜側を思わせる瞳孔の周りを踊る様に鮮烈なフレアが立ち上っている。
その宇宙の只中で必死に踠いている自分の影に女は手を伸ばすが、影はそのまま虚しく深淵へと没していった。
その時、女の足元がぐにゃりと柔らかい感触に変わった。
そのまま生身が絡め取られ底の方へと引き摺り込まれるような感覚に陥り、思わずぎゅっと目を閉じた。
いつからか女はまるで繭に包まれたように柔らかで甘美なまどろみの中を漂っていた。
その意識は瞬く残像と濃密な眠りの境界を行き来する。
――鍵を開け、無くしたはずの、キーホルダーが、
――遅れてしまう、電車の、急がなきゃ、急がなきゃ、
――高層ビルの夜景に、窓ガラスに、
――ランプが、コンセントの、
――此処は、空が、寒い、
――あの少女が、何か、紅い、唇が……。
劇場は幕を降ろし、がらんどうとなった客席に女と少女だけが取り残されていた。
座席に深くもたれぼんやりと宙を見つめる女の髪の上を少女の指が辷っていく。
その頬にキスをした少女が女の耳元に唇を寄せた。
「……」
音と理解はちぐはぐに、彼方に瞬く星の亡霊のようにようやく女の頭の中で意味を得た。
「これはゆめなのに」
弾かれたように女はソファから身を起こした。
水中からようやく顔を出した時の様に酸素を求めて丸く口を開く。
肺いっぱいに空気を吸い込むと、ほの暗い室内へと視線を彷徨わせた。
シングルベッド、木製のローテーブル、布張りのソファに旧式の分厚いエアコンくらいしか見当たらない簡素な1DKの寝室という日常が広がっている。
デスクライトに照らし出された目の前のテーブル上で、開きっぱなしのノート型PCを囲むように持ち帰った資料と書類が重なり、灯りの外では引っ越し業者の段ボールだけが静かに存在感を示していた。
エアコンから吹き付ける冷たい風を浴び続けていたせいか指先がひどく冷たかった。
カラカラに乾いた唇が震え、偽物の痛みの余韻が疼く胸を抑えて目を閉じる。
「――夢、よね」
女の眼裏に途切れ途切れの夢の断片が過ぎった。
――客席から見上げた舞台。
――破れた半券。
――隣の空席。
――男の横顔、あれは二年も引きずった元恋人。
(どうして今更)
その恋は観劇という共通の趣味をきっかけに思いがけず始まると、加速度を上げて燃え尽きた後、怠惰なデブリとなって漂流し約六年続いた。
今にして思えば偏屈で口達者なだけの男だったのだが、女にとっては社会人になって初めてできた大人の恋人で、真逆の好みや雑多な蘊蓄に知らない世界が広がるようで、その自信に満ちた横顔を盗み見ることは堪らなく胸を弾ませた。
そして、ひとつの物語の幕が降りれば馴染みの店に赴いてワインで乾杯をし、感想や考察をあれこれと披露し合い、まず最初のボトルが空になる頃には思考も信条も違う二人が一緒にいられる誇らしさに陶酔した。そして、二本目のボトルも空になると今にも破裂しそうな程に腹も心も満たされ、どちらかの家のドアをもどかしく開いてキスをして抱き合うまでがお決まりの流れであった。
それがいつの頃からか約束だけのチケットが鞄を膨らませ、そのうち破られた半券が引き出しを詰まらせ始めた。
その日、数ヶ月ぶりの約束を無下にされ、チケット一枚を手に出かけた舞台の内容は過去最悪のもので、何もかもが限界を越えた女は悪びれることなく電話に出た男と口論になり、これ以上何かを口にすれば全てが終わるとわかっていながら男のプライドを蹴散らして電話を切った。
それきり、二人の関係も途絶えた。いや、正確にはその一週間後に男から手紙が届いたのだが、女は読まずに処分した。
それまでにたっぷり二年の月日は要したが。
ダイニングキッチンはインテリアや調理器具もなく、部屋そのものが空っぽの箱のようであった。
その中で唯一、壁面と一体化するように据え置かれ稼働している冷蔵庫を女が開いた。
黄色い灯りに照らし出された庫内には水と栄養飲料だけが数本並んでいる。
水のペットボトルを取り出し、ひとくち含んだ。
喉から広がった水分が尊大な冷風に奪い取られた気力を呼び戻してくれるように感じられた。
飲みかけのボトルを手に寝室に戻ると女はそれをテーブルの端に置かれた縁の茶色い書類に持ち替えた。
女は来月他の男と結婚する。
馴染みのない新しい名前で呼ばれる自分を想像し、女は寒気に鳥肌のたった腕をさすった。
女は窓を開け、ベランダへと出た。
郊外のマンション上階から眺める静かな町の景色は夜でも朝でもない、まだ夢の途中にいる様な灰色で、空には朧げに月が残っていた。
ぬるく重たくはあるが活きた空気を吸い込み、女は雨樋と壁の隙間に隠してあったマールボロの緑の箱を取り出すと、角が潰れクタクタになったそれを開けた。
誰に隠すことも止められたこともないが、女はこの一箱を最後に禁煙すると誓っていた。
残り少なくなった箱の中身から慎重に一本を取り出し、火を付ける。
じわりと色付き始めた空に細い紫煙が溶け込んでいく。
鼻腔に届く燻りに束の間肩の力が抜けるが、胸の奥の深い部分へ届いた煙はかえって古傷の跡を思い起こさせた。
何時ぶりかの不快な感傷に女は焦れた。
挑発的な燃えさしを押し潰す女の指先が白くなる。
鼻の頭に滲む汗を拭い、女は室内に逃げ込んだ。
ローテーブルの前にやおら腰を下ろすと、女は書類の山から救出したミントタブレットを口に放り込んだ。
PCのスリープを解いてソフトを立ち上げるまで、習慣に習った指先は無意識に動く。
ふと、画面に視線を送った女が手を止めた。
いつの間にかPC画面には検索エンジンが開いている。
女は無意識にとった自分の行動に困惑した。夢の断片がまた過ぎった。
――揺れる白いスカート。
――小さな裸足の指。
――軽やかに跳ねる少女の後ろ姿。
――あの瞳がこちらを見ている。
それらは、女に『夢占い』というワードを想起させた。
女は “占い”などと名のつく事柄については懐疑的な方であったが、いわゆるフロイト式夢診断に基づいた深層心理が見せるもの。つまりはこの胸の支えが何なのか明確にしたいという思いが勝った。
そのまま何かに導かれるかのようにスラスラと文字は入力された。
『 夢の少女 』
サジェストにはいくつかの候補が表示された。
女が知りたかったこととは程遠いワードばかりが並べられていたが、不思議と指先は何かを求めるように動き続けていた。
そして、行き当たった『共通夢』という未知のワードに女は惹きつけられた。
深く考えることもなくそれを選択し、検索ボタンをクリックする。
画面の先頭には “【都市伝説】夢に現れる美少女の正体とは?【共通夢】”といったタイトルの動画が表示されていた。
訝しい言葉の羅列に女は一瞬躊躇するが、『夢の少女』の影を追うようにカーソルは先を急いだ。
小窓が開き、自動再生された動画に文章が下から上へと流れ出した。
女はスキップボタンを操作し、それを流し読みする。
『SNS上で体験報告ゾクゾク! 夢に現れる美少女――共通したその特徴、謎の少女とは――出現状況や身なりは時に異なるが同一人物であること必至! ――誰もが驚愕した共通夢の少女の顔はこれだ!!』
※ 閲覧注意 ※
――そこで女が動画を停止させた。
目の奥に力を入れ、絞り出す様に記憶をたどるが、自ら作り出した幻影であるはずの少女の顔がどうにも浮かび上がってこない。
あの白い足の指や輝く瞳ばかりが線香花火がちりちりと迸るように色形を成すばかりで、肝心の容姿についての仔細は、純真な愛らしさ、あるいは無垢な危うさを漂わせた雰囲気がまず先立ち、記憶の霞の奥から響く笑い声にかき混ぜられて霧散するばかりなのだ。
それでも女は自分を納得させる何かを求め、また動画を再生させた。
数秒後、其々にタッチの異なる複数の作者が描いたであろう夢の少女の似顔絵が一気に女の視界に飛び込んでくる。
画面いっぱいの少女に女は気圧される。
やがて、それらが十秒ほどの間隔で一枚ずつ表示されていく。
鉛筆デッサンの筆圧が攫んだ暗闇に紛れる長い髪の少女。極彩色の緻密な具象画では黄色いドレスを纏い妖艶に微笑んでいる。風景画に溶け込むように長い影を従え都会の街角を裸足で佇む姿。有名宗教画を模したと思わしき天使の瞳はまさにあの少女のもの。赤く染まった口を歪めただけの稚拙なイラストにさえ少女の面影は重なる――
女の脳裏で少女の顔は滲んだままであるのに、目の前のこれら全てがはっきりと同じ少女だと確信できた。
肌の上をぴりぴりと焼き付けるような感触が走る。
と、すぐそばであの笑い声が聞こえた気がした。
女は背後を振り返るが、そこには静寂が染み入るばかりで人の気配はない。
――その刹那、耳の内で残響がした。
「ゆめ、なの、に」
女は思わず耳を押さえて立ち上がった。
早朝の静謐に横たわる町にバイクの音が迫り、やがて遠ざかって行った。
これはただの聞き間違いか、弱った心が呼び込む幻聴か、それもこれも本当は夢なのか。女にはまるで判別がつかなかった。
蒼白の顔を朝日が照らし出す。
女は体を小刻みに震わせ、腕は粟立っていた。
不穏な空気を振り払うように一歩を踏み出す。
が、その足がローテーブルに引っ掛かり、女は蹌踉めいた。
勢いよく倒れたペットボトルの水が無数の少女を映し出すPCにこんこんと注がれ、画面がぷつりと消えた。
女は痛みに顔を歪め、しばらくその場にしゃがみこんでいた。
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