第3話 定期検診

 病院の定期検診に訪れた。毎月通っているとはいえ、結果を待つ時間の緊張感がなくなることはないだろう。

「今回も問題ないぞ、悠真」

「良かったです。ありがとうございます」

 俺は深々と頭を下げた。主治医の高森先生は事故以来ずっと俺を診てくれている。今でこそ診察で月に1回会うぐらいだが、昔は進路の相談に乗ってくれたり、勉強を教えてもらったりと色々お世話になった。

「今日は若葉ちゃん来てないんだ」

 若葉はたまに俺の病院についてきてくれる。だが昨日のこともあって、若葉から一緒に行こうという連絡は来ていなかった。

「まあちょっと色々あって……」

「そうか。喧嘩でもしたか?」

「いえ、喧嘩っていうよりかは、なんかこう、腫れ物に触ってしまったような……」

「そうか。それは残念だね」

 先生はそれ以上この話に突っ込もうとはしなかった。パソコンに向き直って、キーボードで何かを打ち込み始めた。

「あの、先生」

「どうした?」

「俺って、また人を好きになったりできるんですか?」

 先生のキーボードを打つ手が止まった。先生はしばらく画面を見ていたが、やがて俺の方にゆっくりと視線を移した。

「医者としてではなく、悠真を6年間見てきた1人の大人として答えてもいいか?」

「は、はい」

「それなら答えは『できる』だ」

「……」

 その真意を俺は理解しかねた。だが、医者としての答えを俺は求めてはいない。俺は先生の言葉を深く噛み締めた上で、なんとか飲み込んだ。

「じゃあまた来月な。薬はいつもと同じだ。なんかあったらすぐに来るんだぞ」

「はい、ありがとうございます」

 先生に軽く会釈して、診察室を出ようとドアに手をかけた時だった。

「好きな人ができたら、俺に真っ先に教えてくれ」

「はい。頑張ってきます」

 そう言って俺は診察室を出た。頑張ってきます、と口では言ったものの、自信はない。強い意志や努力だけで解決できる問題ではないのだ。

 病院の待合室には多くの人がソファーに座って順番を待っていた。俺は会計を待つため、若い夫婦の隣の席に腰掛けた。若い夫婦は周りに気を遣っているのか、小声でヒソヒソと喋っていた。何を喋っているかは俺にもわからないが、時々笑い合う2人の姿を見ていると、こんな風になりたかったなんて柄にもなく憧れてしまう。

 高森先生は、俺にも人を好きになることはできると言ってくれた。だがそれは先生も言っていた通り、決して医者としての見解ではない。あくまで俺への応援メッセージ、といったところが正確な表現だろう。

 そもそも脳の障がいが今後治ることはあるのか、俺が失った「愛」という感情を取り戻すことはできるのか、それさえもハッキリしていない。感情というものは、それほど掴みどころのない概念なのだろう。もはや医学を超越している。

「佐々木さん、3番診察室にどうぞ〜」

「あ、呼ばれたよ」

「うん。行こっか」

 隣の若い夫婦が席を立った。旦那さんは左足が思うように動かせない様子で、奥さんが荷物を持って手を貸してあげていた。

「大丈夫?」

「うん、ありがとう」

 その声はやがて診察室の中に消えていった。大変なことは多いだろうが、きっとそれでもいいと思える何かがある。それこそがおそらく「愛」というやつなんだろう。

「藤木さーん、藤木悠真さーん」

「はい」

 その日は会計を済まし薬局に寄った後、散歩もせずにすぐに家に帰った。

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