漆、激情

 そして仕事を終えて、青斗は家に帰ってきた。父に仕事の顛末てんまつを話さなくてはいけない。

「とうさま、お仕事しっかりやってきました。やっぱりあの家には小鬼たちがたくさんいて、その子たちがいたずらしていたみたいです」

「そうか。どうやったんだ?」

「説得してきました。そのままいたずらしていたら追い出されるぞって」

「なるほど。お疲れ様、よくやったな」

「……ありがとうございます!」

 父親に褒められるのは嬉しいことだと、頬が緩む。

「……青斗は昔から、をあまり怖がらなかったからな」

「? ああ、小鬼たちみたいな、ですか?」

「ああ。普通は、小さい時は防衛本能的に怖がるものなんだがな」

「そうなんですか」

「天斗は特にひどかったな、お前が産まれるまでずっとに毎日びくびくしていたよ」

「……そうだったんですね」

 初めて聞く話に驚いていると、父は笑って頷いて、退室するように言った。

「報告ありがとうな、戻っていいぞ」

「はい」

 失礼しますと頭を下げ、立ち上がる。

「ああそうだ。今日天斗の調子が良さそうであれば、一緒に久々に稽古するか」

「……はい!」

 青斗は嬉しそうに頷いて、きびすを返した。

 青斗の父は、しばらくそのまま座っていたが意を決したように御簾の向こう側へ声をかけた。

「天斗、いるんだろう。そこにいては冷えてしまうぞ」

 本当にかすかに、息を呑む音が聞こえて、それから御簾に人の影が映った。

「……父上」

「何か用があったが、俺と青斗が話しているのを聞いて声を掛けづらくなった。当たりか?」

「……その通りです」

 弟が褒められていて、本当ならば喜ぶべきなのかもしれない。だがしかし天斗にはそうすることが出来ないのだ。

「で、どうしたんだ」

「ああ、ええと」

 その後話し続けている間にも、天斗の心の内には黒い感情が渦巻いているのだった。


 そして、久々の兄弟揃っての稽古。今日の内容は、式(紙に霊力を込めることでその紙が自分の指示通りに動くようになるもの)を作るというものだ。

「……蛇よ、我が蛇よ。我が力を式に託せ」

 そう言って、人形ひとがたに切られた紙にふっと優しく息を吹きかける。すると、その人形は息の流れるのに乗ってひらりと舞い、地面に。それはまぐれではなくて、しっかりと地に足をつけて、立っているのだ。天斗の力が彼の息に乗り紙に乗り、そうして紙を式として動かすことができたのだった。

「おお、すごいじゃないか」

「……ありがとうございます」

 その声は淡々としていたけれど、抑えられない喜びが感じられた。にいさまも、とうさまに褒められたら嬉しいのだなと青斗は微笑みながら、彼も兄の真似をする。

「我が力を、式に託せ」

 そう言ってふっと紙片に息を吹きかけると、それは息に乗って流れ、人をかたどったものから形を変え、鳥となって青斗の指へととまった。

「……」

 これには父も驚いたのだろうか、しんと沈黙が降りる。当の青斗本人は、自分の指にとまった真っ白な鳥を見つめて、微笑みかけていた。その姿は、その鳥の白さのように無垢で、穢れのない美しいものであった。

 しばらく続いたように感じられた沈黙を打ち破ったのは、天斗が息を呑む音だった。

「っ……!」

 未だ手元の鳥を見つめていた青斗に、突然天斗が掴みかかったのだった。唐突な出来事に反応出来なかった青斗は為す術なく押し倒されてしまう。式の鳥は驚いて飛び立ち、紙片に戻ってしまった。

「……して……」

 恨みのこもった、くぐもった声が放たれる。

「どうして、お前だけが……!」

 途端、首元が圧迫されているように青斗は感じた。混乱した頭で目線を下へやると、天斗の腕が自分の首元へ伸びているのが見えた。

「……!」

 息ができない。苦しくて、目の前にちかちかと何かが浮かぶ。

「天斗!」

 父の声も遠い。もしかしたら、自分はこれで死ぬのかもしれないとふと思った。だとしたら、何も出来なかった短い人生だったなとも。

 薄れゆく意識の中で唯一見えたのは、いつもは空色に澄み切っている兄の瞳が、今は濁って暗くなっていることだった。


 * * *


 次に目が覚めた時、既に日は傾き彼が眠る茵にまで夕日の筋がすっと伸びていた。ぼんやりと今日が出仕の日であることを思い出す。

「……出仕は、間に合わないか」

 はあ、と息をつきもう一度ごろんと大の字になり、自分がこんな時間まで寝ていた理由を頭の中に反芻はんすうする。もうされていないはずなのに、まだ首元に圧迫感が残っているような気がして、首に手をやりさする。

「……青斗!」

「あ……とうさま」

「大丈夫か?」

「はい、なんとも」

「そうか。よかった」

 心底ほっとしたように息をつく父。

「天斗に、お前が起きたこと伝えてくる」

「分かりました」

 青斗は再び、自分が意識を失う前のことを思い出す。天斗はあの時、突然人が変わったようにこちらへ向かってきた。青斗には、なぜあんな風になってしまったのかという理由に皆目見当もつかないのだった。

「……青斗」

「にいさま」

「具合は、大丈夫なのか」

「はい。なんともなく元気ですよ」

「そうか」

 几帳の向こうで姿を見せない天斗に、青斗は不安そうに声をかける。

「あの……怒ってるって思ってますか」

「そりゃ、実の兄にあんなことされて、怒らない方がおかしいようなものじゃないか」

「その、なんというか、にいさまはと思うんです」

 そう青斗が言うと、几帳の向こうで空気が揺れる気配がした。

「わざとじゃないなら、僕は別に怒りません」

「……俺自身、どうしてああなったのかよく分かっていないんだ。自分がしたことなのに」

 小さく言った天斗は、几帳の向こうから部屋の中へ姿を見せた。

「……本当に、すまなかった」

 天斗は部屋に入ってすぐのところで膝をつき、そのまま両手を揃えて頭を下げた。

「に、にいさま!」

「俺がしたのは、こういうことなんだ」

「か、顔を上げてください」

 慌てて青斗がそう言うと、天斗はゆっくりと顔を上げる。その瞳の奥で、黒い影が揺らめいた。

 青斗はそれに目を見張り、天斗は何に気づいたのか忙しなく立ち上がり、几帳の向こうへと姿を消した。部屋の中には呆然と茵の上に座り込む青斗だけが残された。

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