肆、大人になるということ
「ときは、そろそろ裳着を済ませないとね」
ある日母からそう告げられたときは。驚きながらも、時間が来てしまったのだという悲しさの方が大きくなっていく。
「……かあさま、青斗と会えなくなってしまうの?」
「会えない訳じゃないわ。青斗くんがあなたのところに来てくれたらもちろん通すわよ」
「一緒に遊べないんでしょう?」
「……そうね」
困ったように笑ってそう頷く母の顔を見て、じわっと涙が滲む。
「ああ、泣かないのときは。おいで」
そう言われて、ときははよろよろと母の腕の中へ入り込む。母の胸に顔をうずめると、心地よい温かさに包まれた。
「どうして大人になるのが嫌なの、ときは」
「……青斗と、お手玉できない」
「青斗くんと一緒にいられないのが寂しいのね」
「……うん」
「そうやってずっと思っていれば、また会えるようになるわよ」
初めて聞いたその言葉に、少々目元が赤くなった顔を驚いてがばっと上げる。
「え……どういうこと?」
「ふふ。かあさまととうさまも昔はあなたたちと似ていたってこと」
「そ、それじゃよく分からない」
「直に分かるようになるわよ。大丈夫」
そう言って髪をくしゃっと撫でる母の手の温もりを感じながら、ときははうーんと唸っていた。
「……こんな風に言われたんだけど、どういうことだと思う? 青斗」
母に『また会えるようになる』と話された次の日、仕事から帰ってきてまた寝ていた青斗を叩き起こしたときははそう聞いた。
「うーん、なんだろう。僕にもあんまり分からないな」
「……一緒にいたいって思い続けたら、ってことだよね」
「たぶん」
二人ともぴんと来ず、しばらく青斗の部屋に沈黙が流れる。
「うーん、でもしばらく会えないのは変わらないからちょっと寂しいな」
「……時々お話しに来てね。いろんなこと」
「もちろんだよ。たくさんお話しよう」
ときはの裳着は、青斗の元服から二ヶ月ほど後に行われた。これで青斗もときはも立派な大人である。
青斗は、ときはの裳着の儀式が終わったであろう頃にときはの家へ行った。
「あら、青斗くん。いらっしゃい」
「えっと、ときはは?」
「部屋にいるわよ。ああでも、あまりこちらに来たことはなかったかしら。案内するわね」
「ありがとうございます」
そうしてときはの母の後ろをついていくと、奥の方の部屋に通された。
「ここよ。ゆっくり話していってね」
「はい」
部屋には一枚の大きな御簾が掛けられて、その奥は見えない。
「……ときは、いる?」
「青斗」
「ああ、いるんだね。こちらからはあまり見えないけれど、僕のことは見えてる?」
「見えてる」
「そっか」
少し寂しそうに目を伏せる青斗。少々ため息をつくと、何事もなかったように明るい声をあげる。
「おめでとう、ときは」
「うん、ありがとう」
「緊張した?」
「ちょっとだけ」
「……大人、だね」
「……うん」
もっと昔は、早く大人になりたいと願っていたはずなのに、いつからかときはと離れるのが嫌で、大人になりたくないと願っていた。けれど時の流れは無情で、こうして二人を一枚の御簾が隔てるようになってしまった。たった一枚のそれを、取り除く術は何もない。そう、たった一枚なのに、その間がとてつもなく遠い気がしてしまうのだ。
「……遠いなあ」
「なにが?」
「……ときはが、遠く感じるよ。目の前にいるはずなのにね」
その言葉を聞いて、ときはは目を見開いて絶句する。そうだ、こちらからは見えるけれど、青斗の方からは自分の姿は見えないのだ。
さっ、さっと
「青斗。こっちに来て」
「え、でも」
「大丈夫。私がいいって言ってるんだから」
「……分かった」
本当に大丈夫だろうかと心配しつつ、言われた通りに御簾の近くへと移動する。
すると、床と御簾の間に空いた少しの隙間からときはは手をすっと青斗の方へ差し出した。
「ときは?」
「手、繋ごう」
「なんで」
「なんででも」
不思議で仕方ないままに、彼女の手に自分のそれを重ねる。自分のものより温かいときはの手の温もりを感じて、久しぶりの感覚に頬が綻んだ。
けれど手の温もりに反して、聞こえてきた声は冷たく沈んだものだった。
「……こうやって手が繋げるのに、どうして遠く感じるなんて言えるの」
ときはのその言葉に青斗は目を見張る。彼女は昨日までと同じように接してくれているのに、ただ一枚の薄い壁に隔てられただけで、彼女が見えなくて、今までと変わってしまったのだと冷酷に告げられたような、そんな気がしていた。それがときはは嫌だったのだ。
「……ごめん、勝手に、今までともう違うんだって割り切っていたみたいだ……今までと何も変わらないのに」
「ただ大人になった、姿が見えない、それだけで今までの関係が崩れるなんてありえない」
青斗の指を掴む力が、きゅっと強くなる。
「そうでしょ」
「……うん。本当に、ごめん」
「そんなに、謝らないでよ」
しばらく黙ったまま、お互いの温もりを分け与え、感じる。
そのままどのくらい経ったか分からない。ふとときはが手を離した。
「……ときは?」
「ごめんね、長い時間引き止めて」
「ううん。こちらこそ、変なこと言ってごめん」
「また、お話しよう」
「うん、しよう」
「今日は仕事は?」
「あるけど、相変わらず夜からだから」
「そっか。頑張ってね」
「ありがとう」
こんなに会話は続かないものであっただろうかと思いながら、青斗は立ち上がって、ばいばいとこちらからは見えない向こう側に手を振った。
別れ際まで結局よそよそしくなってしまったなと、ときははため息をついた。あれが嫌で、なんとかして今まで通りにできないものかと考えに考えたが失敗だ。こちらには今まで通りの青斗が見えて、その一挙手一投足までしっかりと見えるというのに、自分が手を繋いで黙っていた間に泣いていたのも、向こうには見えていなかったということだ。その証拠に彼は、こちらの顔を見ることはせず思い詰めたような表情をしたまま、じっと繋がれた手を見ていたのだった。
重ねて着た単の袖をいじりながら、ため息をつく。目の前に彼がいて、こんな大きな壁がなかった頃には、もう戻ることはできないのだ。
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