鈴音  一般通行人(異変)

 秋初めの涼しい風が舞い込む高架下で、一面に広がる夕暮れ色をみつめる。太陽の光に染まったまだら雲は多いが、今夜曇るのかは定かではない雲行きだった。

 スマホで今夜の天気を調べていると、澄んだ鈴の音が耳にささやくように聞こえ、きょろきょろと辺りを見渡す。

またあいつが来たのかと少しばかり警戒していると、ガードレールの向こうに鬱蒼と広がる森から、小さな何かが近づいてきていることに気づく。

 茂みを縫ってこちらへ向かってくるそれは、闇夜の様に真っ黒な子猫だった。猫好きの僕は一瞬で心を奪われ、猫なで声で手招きをする。子猫は鈴の音を鳴らしながら、恐る恐る近づくと僕の手に顔をこすりつけ、小さく喉を鳴らした。

ふわりとした毛玉に身をこすりつけられるたびに、背中に電気が走ったように痺れ、僕はすっかり魅了されてしまった。


気付くと時刻は五時過ぎ。すっかり夢中になって子猫と戯れていた故に、辺りが薄暗くなっていたことに気づかなかった。高架下の外灯も弱弱しく点灯し始めた。

 これ以上帰らなければまた叱られ、今度こそ外出禁止にされてしまうだろうと思い、名残惜しくも子猫に別れを告げる。一時の癒しの余韻を噛みしめながら歩き出すと、澄んだ鈴の音が聞こえた。音の在りかが気になり後ろを振り向くと…子猫はいなくなっていた。

 さっさと帰ってしまったのだと思うと、寂しくもあるが猫らしいというか、でもやっぱり寂しいと感じた。

子猫との癒しの時間を思い返しながらにやけていると、ふと疑問を覚えた。あれだけ遊んで体を触ったが、鈴の音が鳴るようなものが見当たらなかったな、と。

 だが、特に気にすることではないだろうと割り切り、鬼の待つ家へ駆け足で帰った。



 ふと目が覚めた。やけに頭がすっきりとしていた。

時間を確認しようと、暗闇の中ベッド上部を手探りし、指先に触れた硬くも冷たい端末を握る。

画面の明るさに眼球の裏が痛み、ぐっと奥歯を噛みしめ、眉間に爪を立てる。目が慣れてきたところで時間を確認すると、深夜の二時少し前だった。

 寝直すのも時間がかかるだろうし、なんとなく外を出歩いてみたいと思い、音をたてないようにそっと家を出た。

 秋の深夜は冬の始まりの様に肌寒く、半袖のままきたことを後悔した。だが、今家に戻れば見つかり、深夜の外出なんてできたものではない。人生で初めての体験に、口うるさい親なんかに水を差されたくなんてない。

自販機で暖かい飲み物を買い、腕に当てながら街を歩く。今夜は曇り空になったようで、月明かりも無い住宅街は酷く暗かった。電灯の光だけがビビットに光り、濃紺の道路を寂しく照らす。

 冷ややかな風に腕を撫でられ、そそくさとコンポタージュの蓋を開けようとしたとき…夕暮れに聞いた鈴の音が、すぐ近くで鳴った。

バッと顔を上げ辺りを見渡すが、例の子猫の姿はどこにもなかった。だが、確かに近くで鈴の音がする。耳を澄まし音の方へ近づくと、僕の動きとは反比例にその音は遠ざかる。

だが、頻繁に鳴る鈴の音は、僕にここだと知らせているようになり続ける。また進めばまた遠ざかる。まるで鬼ごっこをしているような、導かれているような……。

子猫の姿を見つけようと駆けだすと、音も早く走り出した。その音に導かれるまま走り続けると、気付けば例の高架下に来ていた。

 息を切らしながら子猫の姿を探すが、高架下の弱い外灯では、辺りを鮮明に見渡すとことは不可能だった。

 すると、高架下の闇夜に何かがうごめいていることに気づき、じっと一点に目を凝らす。

闇にいるなにかは、こちらに気づいたようで、ぴょこぴょこと跳ねてこちらへ近づく。

けんけんぱをしているような不安定さで跳ぶそれは、何かが滴る音と共に、点滅する外灯の下へと姿を現した。

それは……


 それは…体が半分欠損した、例の少女だった。

のどを何かがせり上げてくる感覚に口を強く塞ぐが、激しい吐き気は僕の抵抗を虚しくも打ち破り、とめどなく地面にぶちまけた。

胃に残っていた夕ご飯は、のどを焼く酸と吐き気を催す異臭と共に流れ続け、息を殺す嗚咽が脳を支配する。

少女の体に残された荒々しい噛み痕は、巨大な獣に食われたかのように酷く痛ましい。

垂れる臓物を引きずり、露わになる歪んだ骨、地面へ広がり続ける赤黒い液体。右半身だけ残った少女は、乱れた髪が脳みそに混ざり、抉れ皮膚の構造が見え隠れする顔で、いつものような微笑みを浮かべる。その瞳は墨汁よりも深く、底無しの暗がりを感じさせる、どす黒いものだった。

 その笑顔にまた吐き気を覚え、残りの吐しゃ物を出し切る。

恐怖で手足が震え、感覚が失われていく。熱くなっていく顔は冷や汗と涙で塗れ、もはや顔を伝うものは涙なのか、汗なのか吐しゃ物なのかわからないほど、身も心もぐちゃぐちゃになっていた。一瞬きの情報は酷く強烈で、僕の脳は思考を巡らせることを拒否し、胃酸だけを吐き続けていた。

「ねぇねぇ見て!唐傘お化けみたいでしょ!」

 自分の悲惨な状況を気にするどころか、まるで他人事のように、明るい声色で少女は話しかけてきた。

柿色の唐傘をどこからかともなく取り出すと、右足だけで器用に飛び跳ねる。その度に漏れ出す臓物、吹き出す血液は水溜まりを広げ、辺りを鮮血に染めていく。銀臭い匂いは鼻奥を劈き、再び吐き気を催しのどを焼いた。


「大丈夫?」

「……はぁ……はぁ…………大丈夫な、わけ、ないがら……っちょっと………近づ、かないで………ふぅ…はぁ…水で色々ゆすぎたい…」

「水?はい、どうぞ!」

 少女がそういうと、頭上から滝のように水が降り注いだ。

突如注がれた水に疑問を抱きつつも、天の恵みを両手で享受する。指や爪の間の吐しゃ物を洗い流し、鼻の中に入ったものを掻き出す。掬っては口をゆすぎ、それを気が済むまで繰り返した。

頭の汗や気持ちの悪い顔をがむしゃらに洗い、一通り気分が済むと水の停止を呼びかける。

深く何度も息を吸い、脳に酸素を送り思考を整えていく。

徐々に頭が明瞭になり、先ほどまで流れていた水は、一体どこからきているのかが気になった。

水の流れ出ていた先を探ろうと上を向くと…傘を僕の頭上で広げ、こちらに微笑みかけるグロテスクな少女が目に映り、再び押し寄せる吐き気を必死に堪える。

「うっ…!…あ、ありがとう…でも、できれば…視界に入らないでほしい…」

「えー…私がこうなったのはあなたのせいなのに」

「…え?」

「今日の夕暮れ、闇夜の様に真っ黒な子猫と遊んだでしょ?」

「なんでそれを知って…」

「あの子があなたを気に入っちゃったから、近づいた私は半分喰われちゃったんだよ」

 …は?あの子猫がこの少女を半分喰った?いくらなんでも無理がある。

というか…喰われても平然としているこいつは……明らかに人じゃない…!

幽霊?幽霊も喰われるとこうなるのか?いや、そもそもあの子猫が本当に…?

…………頭がうまく動かない…

手足は未だに微震し、下手したら自分の吐しゃ物の上に落ちてしまいそうなのを維持でも堪える。


ぐるぐると混乱する頭に、あの鈴の音が響いた。


右手に綿毛のような柔らかい感覚がし、ゆっくり視界を動かすと、例の子猫が身をこすりつけていた。幾度も子猫からリーン…リーン…と涼しい鈴の音がする。

「この子猫…一体どこから鈴の音がしてるんだ…?」

「?それはこの子の鳴き声だよ?」

「鳴き声⁉」

 耳を疑う情報に思わず少女へ振り向くが、またぞろ吐き気に襲われる。

一体これで何回目だ…。色々精神的にげっそりしてしまい、もう何もしたくない…。

「あぁそうだ。その子の機嫌を損ねないようにね。私みたいに食べられちゃうよ?私は治るからいいけど」

 突然の爆弾発言に、僕ののどはひゅっと音を立てる。

腕にもたれかかり、可愛らしくのどを鳴らしている子猫が酷く恐ろしく感じ、僕は今すぐ逃げたい一心に狩られる。

震える声で言い訳まがいに帰る都合をつけ、脱兎のごとく家路へ急ぐ。さっきまで力の入らなかったのがウソのように、足はとても速く動いた。家へ駆けこむと、足音も気にせずバタバタと階段を上がり、小さな子供のように布団にくるまり震えていた。

 眠れる気は到底しなかったが、ぎゅっと目をつむり、気をそらそうと羊を数える。

 夜はまだ、長い。

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