誰かさんの夜咄  一般通行人(奇譚)

暑い八月に入り、夜は少しじめっとしている。肌にまとわりつく湿気はタオルでぬぐい取ることもできず、不躾に人の肌をべたべたと触り続ける。なんと鬱陶しい夜なのだろう。

もう夜だというのに、蝉は命が尽きん限り鳴き喚き、雌にアピールを欠かさない。ご苦労なこって。

いっそのこと雨が降ってくれれば、ぬるい湿気が少しは涼しくなるのだろうが…この晴れ渡った空からしてそれはないだろう。僕の嫌いな星々が煌めく、無駄に美しい夜空だった。

なんとなくだが、夜の散歩に出てみようと思いいたった。親にコンビニに行くとだけ伝え、宛てもなく夜の街を徘徊する。

ペタペタと鳴るサンダルの音を聞きながら、道すがら自販機で買ったサイダーを飲み、人気のない道を行く。何も考えず無心で歩いていると、久々にあの高架下に辿り着いた。

まるで誘われたかのように行き着いたそこには、藍色の大きなリボンを頭に付けた、例の少女が音もせず立っていた。


亡霊のような姿に思わず驚いてしまい、持っていたサイダーは僕の手からすり抜け、地面で盛大に踊り狂った。

少女の周りだけ薄ぼんやりと光って見えて、まるで本当の幽霊がそこにいるようで、少し恐ろしかった。

心臓が早く脈打つ。少女に恐れをなした己に、少しのショックと小さな怒りを感じながら、固唾を飲んでゆっくり近づいた。

少女は足音に気付いたようで、振り向きいつもの笑顔を向けてくる。その笑顔が一層恐怖心を煽り、癪に触った。

こいつはなぜ、こんな時間までここにいるのか。こいつの親はどうしているんだ?それとも虐待されていて締め出されたのか?にしては、服はちゃんとしたのを着てる。じゃあなんでここにいる?もしかしたらこいつは、ここで死んだ子供の霊なんじゃないのか?じゃあどうして僕は見えるんだ?幽霊を見るのは初めてだし、見た目はあんまり怖くないんだな。…などとまじめに考えていると、少女が突然話しかけてきた。

「ねぇ、夜咄、聞く?」

初めて聞いた少女の声に、僕は再び驚き肩を揺らす。

…初めて?以前もこんなデジャブを抱いたような…いや、確かに七月もこんな事を考えて………。

思考が鈍ったように重くなり、ぐるぐると謎のデジャブに僕は思考を巡らせた。

ふと、少女に返事をしていないことに気づき急いで返事をするも、妙に声が震えてしまった。こんな子供に何度も驚かされ、かっこ悪い声を出したことに更に凹んだが、少女はそんな心情をを察することもなく、夜咄を語る。


『ある所に、一人の少女がいました。

居場所のない少女でした。

少女は毎日同じところで泣いていました。

そこで知り合った人がいました。

その人はいつもそっとそばにいてくれました。

少女はその人に安心感を抱いていました。

ある日少女はその人と共に消えました』


少女の高いソプラノの声は、静かな夜にシン…と響いてゆっくりと暗闇に溶けていった。話が終わったのか、少女はまたいつもの微笑みを浮かべて暗い道を見据える。

「それで終わり?」

そう問いかけると、少女はこちらを振り向かずに頷く。ずいぶんと短い話に肩透かしを食らってしまった。逆に長すぎても困るのだが、変な終わりで釈然としない。果たして少女はどうなったのかわからないじゃないか。続きはどうなったのかを聞こうとした瞬間、少女は僕が来た道と反対の暗い道へ駆け出した。


「ちょ、おい!」僕の声に振り変えると、少女は今までとは少し違う、どこか嬉しそうな期待をしているような微笑みを向け、そのまま暗闇へ溶けて行った。

完全に見えなくなったところで、急に蝉の声が耳を劈いた。時間を見ると九時半を回っており、親の怒る顔が目に浮かんでうんざりし、僕は深く肩を落とした。

急いで帰路へ立った時、ふと気づく。

やけに涼しい夜だと。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る