第42話 あの夜のこと
あの夜、占い小屋から帰ると、晋之介はいつもと変わらなかった。大きく尻尾を振り、耳を垂れさせ、お気に入りのおもちゃを玄関まで加えてきた。占い小屋からの帰り道、果てしない疲労感に押しつぶされそうになっていたわたしを、やさしく迎えてくれた愛犬を、わたしはきっとしあわせにできない。なんて身勝手で一方通行なのだろう。
由香里らしき女が春人の後ろにいると、占いお婆さんは言っていた。わたしは由香里に恨まれる覚えはないが、どうやら由香里はわたしを嫌いだったようだ。公園で由香里がわたしに喧嘩の内容を話したが、その殆どは偽りだったと、記憶を取り戻してわかった。
由香里のアパートに行った日のこと、仕事を終えて帰ろうとするわたしを由香里は引き留めた。
「きょうさ、凄いもの見ちゃたんだけど、気になる?」
時刻は午後7時をまわっていた。病院の受付には由香里しかいない。そもそも由香里の帰宅時間は5時の筈なのに、その日に限り由香里はいつまでも受付カウンターの中でなにやら書類整理の様なものをして時間を潰していた。わたしの帰りを待つためだったのだろう。
「えっ何?」
「気になるでしょう。少し飲みに出ない?」
「あっ、ごめん、きょうはちょっと用事が」
今夜、春人が珍しく食事に誘ってくれていた。
「用事って何よ。まさかご主人とデートとか」
「そんなんじゃないけど、きょうは帰らないと、ごめんね」
小走りに歩きかけると、
「大事な話だから、ご主人のこと。気になったら電話して」由香里はそう言った。自宅に帰ると、春人は未だ帰宅していなかった。家で待ち合わせて、ふたりで出掛ける予定だった。1時間がすぎ、2時間が経った。壁掛け時計を見上げたわたしは、春人ではなく、由香里に電話をした。
「あっあの外村です。おつかれ様でした」
呼出音がしないうちに由香里が電話に出たので少々驚いた。
「桜花、外村なんていうから誰かと思ったわよ」
「すみま、ごめん。電話するのはじめてだったし」
「まあまあいいわ。なんだ、ご主人は、春人くん。春人くんて呼んでいい?」
「えっうん」
「帰って来てないんだ」
「そう、だけど」
「やっぱりね」
「どういう事」
「えっ!」声が小さすぎたのか、由香里が聞き返す声が大きすぎて。わたしはスマホを耳から離して画面を見つめた。心の動揺とは裏腹に、スマホの画面に映るわたしの顔は怒っていた。
「まあ、いいからさ、うちに来ない。そこで教えてあげるし」
わたしはスマホを耳に戻した。
「でも、今夜はもう遅いから」
「そんなこと言ってたら、後悔するよ」
この押し問答を繰り返した後、わたしは渋々由香里のアパートへ。玄関の前まで来て、それでも躊躇して、引き返そうかと思ったところで、ドアがいきなり開いた。
「何してるのよ、入ってよ」
襷がけの鞄の紐を引っ張られ、玄関に入れられた時には危うく転びそうになった。
「ここで、いいから」
ふたりで立つことが難しい程小さい玄関に立ち竦み、わたしはうつむいた。
「なんだかなぁ、まあいいけど」
薄手のパジャマ姿で腕を組み、由香里は玄関の電気をつけた。わたしの足元には彼女のヒールが転がっていた。何をするのも雑な人だった。
「由香里、話しって、夫に関することなのかな、女性関係とか?」
「ピンポーン」
由香里は人差し指を立てた。
「だったら、誤解だと思うよ」
「どうして」
「友達の多い人だし、だれにでも気さくというか、だから、誤解されやすくて。うん。そうに違いない」
「そんなに信じてるんなら、なんでここに来たのよ」
「それは……」わたしは首を捻った。確かに、由香里の言う通りだ。
「でしょう、疑ってるんでしょう春人くんのこと」
「どうかな」
「はあ」
わたしは、それ以上の言葉が出せず、唇を微かに動かしているだけだった。
「鬱陶しい桜花、いつもあんたそんなんで」
「うん、わかってる」
帰ろうと、玄関のドアノブに手を掛けたところで、由香里にまた襷を引っ張られ、頬を強くぶたれた。わたしはその勢いで壁に頭をぶつけてしまい、同時に激しい頭痛に襲われた。
「あんたのすてきな夫はね、浮気三昧なんだよ。そんなことも知らないで、よくいつもニコニコ笑って仕事できるよね。そういうあんたの姿を見ると本当にむかつく。なにいい奥さんぶってんのよ」
「ふーん」
「ふっふーんってなによ。馬鹿にしてんの」
わたしはぶつけた頭を摩りながら、由香里に向いた。わたしの顔を見た由香里の顔に不安の色が広がった。
「も、もういいから帰ってよ」
由香里はわたしの肩をつかみ、片手でドアを開けようとし、足元がふらついて自から転んだ。狭い玄関の中で折れる様にして倒れた由香里を跨いで出ようとしたが、由香里がわたしの足首を両手で掴んで振り回そうとしたので、わたしは由香里に馬乗りになり、両肩を上から押さえつけたのだ。すると彼女はわたしの長い髪の毛を引っ張り、わたしは髪が抜けない様にと由香里に顔を近づけることになった。
「やめてよ」
わたしがいうと、由香里は手に髪の毛を手に巻き付けて重いっきり引っ張ろうとした。わたしは自分の右手を彼女の肩から離し、彼女の頬を爪を立てて掴んだ。
「ギャーーーーーー」
彼女が大声を張り上げた時、春人が入って来て、わたしを羽交い絞めにしたのだ。
「どうして、由香里の家にいるってわかったの」
タクシーの中でわたしが聞くと、春人は窓外を見ながら答えた。
「彼女からメールがあって、これから奥さんが遊びに来るって」
「メールの交換してたんだ」
「ああ」
街の灯りを眺める春人の顎のラインが、なんだか他人に見えた夜だった。
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