第41話 智美の死の真相

自伝を綴りはじめて三か月になる。

ここはどうやら病院らしい。

ここ最近、意識が遠のくことも多くなり、このままでは自分の存在も、まわりにいた大切な者たちも、全て記憶の底に沈んでしまいそうで、慌てて筆を取った。

晋之介はどうしているのだろうか。彼を思うと涙で視界がぼやける。わたしがこの世界の自由を奪われ拘束された時、晋之介は、あの占いお婆さんの元にいた。警察の動きが慌ただしくなったので、わたしが頼み込んで預けたのだ。晋之介の養育費だと、貯金の半分を渡した。残りの半分は、信用のおけるNPOどうぶつ保護団体と契約書を交わし、その報酬とした。

もし、例えばお婆さんが晋之介を裏切り捨てた時、晋之介の身柄を、その団体に引き取って貰う、そういう契約だ。

そんなことならばなぜ最初からその団体に預けないのかと思われるだろうが、それは、施設よりも、一般家庭の方が晋之介も心穏やかに過ごせるだろう。そう思ったからだ。

どうぶつ保護団体とは弁護士を介し、契約書を交わしている。過払い金請求ばかりしている弁護士もなかなか信用ならないが、この際、仕方がない。

「大丈夫、大丈夫。世の中そんなに悪くない」

晋之介は、虐待されてないだろうか。負のイメージを打ち消そうとするが、どうしようもなく胸が苦しくなる。そもそも晋之介を手放さなければならない事態を作ったのは、わたし自身である。

「隔離性同一症」

幼少期に、適応能力を超えた激しい苦痛や体験による心的外傷などによって、ひとりの人間の中に、全く違う人格が存在する。あの夜、お婆さんに指摘された症状は当たっていた。わたしは、わたしでない自分で生きて来たのだ。

アンガーコントロールが出来ない性格。

夫や友人たちを傷つけたのは、櫻井桜花という真実のわたしだった。

父の死の直後、涙も流さず冷静だったわたしの対応を、母は受け入れられず、そのうち、わたしを怯えた目で見るようになった。そしてあの日、弟を絞殺した母は、部屋を覗いたわたしを見て、こう言った。

「ごめんね、環境があなたを苦しめた」

わたしは無言で母に近づき、ベランダの柵に追い詰めた。

「いいのよ、これ以上は」

母はそう言って微笑んだ。玉の涙を流しながら。

わたしも母も、なんて愚かなのだろう。わたしは無言のまま、庭で遊んでいる妹のところへ行った。おままごとに加わったところで、母が落下したのを確認した。その時、わたしの感情は動かなかった。わたしは、弟を殺した母の死を、当然の報いだと信じていた。

残された妹の死因は肺炎だが、肺炎になるまで妹をほったらかしにした叔父は許す訳にはいかない。両親の死後、わたしたちふたりは、母方の叔母に引き取られた。その環境は劣悪だった。コンテナの様な部屋で、姉妹ふたりで暮らしたが、冬の寒さの中、暖房器具がない状況では、常に死と向かい合う。叔母はその時、祖母が骨折したとかで、ずっと家を空けていたので、わたしたちの状況を知らない。なので叔母に罪はない、そう解釈した。

義理の叔父は、わたしが手を下す間もなく、交通事故で亡くなった。すぐに新しい叔父が来たが、その人とは、あまり関わりがなく、記憶に薄い。

最初に自分を常識的ではないと感じたのは、いつの頃だっただろう。たぶん、自殺した父と愛人の遺体を見た時ではないかと思う。遺体の第一発見者はわたしだった。

彼らの死から少し遡る。父はとあるマンションまでわたしたち姉妹を連れて行った。函館駅近くにあるそのマンションは、左程広くはなかったが、調度品などが豪華だと子供ながらに思っていた。父はリビングルームを見つめ、顎に手を当て何かを考えていた。時折、うーんと呟き、首を捻っている。妹は真新しいソファーの上で飛び跳ねて遊び、わたしは各部屋を見て回っていたが、「ここはどこだろう?」という疑問を持っていた。

「あっ、やられた」

父がそう言って、掌をたたいた。

「どうしたの」

わたしがそう問いかけると、父はソファーに腰掛け、妹を抱き寄せた。

「なんかおかしいと思ったんだよ。部屋の感じがなんか違うかなって、やっとわかった。オーディオ機器が全て無くなっている」

「消えたの?」

妹が首を伸ばして父を見上げ、そう聞いた。髪の毛をふたつに分けて結んだリボンが可愛い。

「そう消えちゃったんだ」

「どうして?」

その後、父が妹に説明をしていたが、わたしは台所のダイニングテーブルに座ってリビングルームを見ていたので、内容は聞いていない。ただその少し前に両親の喧嘩の中で、そこのマンションが話題になり、愛人をその部屋から追い出したのだと聞いていた。推察だが、部屋を出て行く愛人に、オーディオセットを持って行かれたのだろう。

マンションからの帰り際、父は、

「笑い方がエディーマフィーなんだよあの娘、そこが我慢できなかったんだよね。顔は美人なのに、笑い方がどうも」とぽつりと言った。

なぜ父がわたしたちを、愛人とのいわくつきのマンションに連れて行ったかはわからない。ただそのマンションに住ませていた女と乃扶子は別人で、父の心移りに絶望した乃扶子があのマンションで最初に父を殺し、自分も死んだのだと、いわゆる無理心中だと、わたしはそう思っている。学校の帰りに何気に、足を延ばして駅前のあのマンションを訪ね、鍵のかかっていないドアをそっと開け、リビングルームで死んでいるふたりを見つけたのはわたしなのだ。薬を飲まされ、絶命している父に絡みつくようにして死んでいる乃扶子の顔は、異常に恐ろしいものだった。余程、薬で苦しんだのか、父や母への怨念なのかはわからないが、穏やかな顔で死んでいる父とのかい離を見ると、ふたりが同意の心中だったと結論付けた警察の見解は間違っていて、その結論が母の自殺に繋がったのだ。

ふたりの死んでいる姿を見た時、わたしは、悲しみが湧いて来なかった。ただ茫然とその姿を眺め、飽きた頃に自宅に帰る。わたしにはそういう意味での感情が欠けている。自らが手を下し殺人を犯したいとは思わないし、人や動物の生死に関して心を乱すのは事実なのだが、嫌いだ、消えてしまえなどと思った時は、彼らに感情を残さない。わたしは裏切りを繰り返す父も嫌いだし、他人の家を壊そうとする身勝手な愛人も嫌いだ。そして父に執着し何の罪もない弟を殺した母も哀れだ。

しかしそういう人達の死を見ても、わたしは至って冷静で、悲しみという痛みを感じなかった。

智美が自殺したと聞いた時もそうだった。何故で自殺したのだろうという興味は残るが、然して気にとめた訳ではない。

「春人くんは浮気してたんだよ」

あの居酒屋の店内で、智美は周りに目を配ると、わたしに顔を近づけてそう言った。

「知ってることをわざわざ言わないでよ」

部屋に帰り、酔いつぶれて眠る智美の耳元にわたしはそう囁いた。

春人の態度の変化に気づかないふりをして過ごした日々。突然の離婚の申し出。何度、離婚の理由を聞いても彼は答えなかった。女の影はなかったが、男女の別れの理由として、他に好きな相手が出来たと考えるのが普通だろう。でもわたしは春人の気持ちを無視し、いつかまた元に戻れると楽観視していた。

夜中2時頃、智美は喉が渇いたと言って起き上がった。寝ぐせの髪の毛に、ズレた眼鏡。全く惚けた顔をしていた。

「桜花、水、貰ってもいい」

「いいよ」

あらかじめ用意しておいた水の入ったグラスを智美の前に突きだす。

「あっびっくりした、顔の前に持って来ないでよ」

彼女は水を飲み干すと、音がする程、雑にテーブルに置いた。そしてそのまま横になり、布団を顔まで上げた。

「明日の朝、帰るから」

布団の中で智美は言った。智美の眠るカウチの脇に座っているわたしは、智美の布団を剥いだ。

「なにするのよ」

神経を刺激されたように智美は身体を起こした。

「あなた、春人の何を知ってるっていうの」

「なにって、春人くんが浮気していたことよ」

「そう、言い切れるの?だったら相手はだれなの?」

「相手は紗耶香に決まってるじゃん。友達だからって信用しない方がいいよ」

智美は唇をすぼめ、膝を抱えて前を向いた。

「そんなにさあ、怒ることないじゃん。むかしの話しなんだし、しかも春人くんはもういないし」

「春人は、いるよ」

「はあ、何言ってるの」

智美が大声を出すので、わたしは両耳を抑えて、首をふった。叔母の家で、義理の叔父に毎日怒鳴られていたので、大きな声は好きではない。

「なんなのよ、気持ち悪い」

カウチから降りた智美は身支度をした。真夜中だというのに声の調整をせずに、終止大声を出して文句を言い続ける智美を、わたしは座ったままで見つめていた。

「じゃあね、もう二度と会わないから」

捨て台詞を吐いて、智美は部屋を出て行った。

「つかれた……」

わたしはカウチから立ち上がると、晋之介を閉じ込めておいた寝室のドアを開けた。

「ごめんね、怖かったね」

晋之介を抱きしめるわたしの腕は震えていた。

智美が出て行ってから5分もしないうちに携帯電話が鳴った。

「智美だ」

電話に出ると、智美は更に大声を張り上げた。

「ねえ、わたしの財布がないんだけど、あんた盗んだでしょう」

「なんのこと、財布なんて知らないし、盗む訳ないじゃん」

そう言ったところで、カウチの下に落ちているポーチ型の財布が目に入った。

「あっ」

「えっなに?財布、あったの?」

「うん、カウチの傍に落ちてた」

「あっそう。じゃあ持って来て」

「わたしが」

「そうよ、あんたの家で失くしたんだから、あんたが責任を持ってよ。いま、駅のところの公園にいるから、持って来て」

真冬さながらの寒さに、北風が吹いていた。晋之介は置いて行くつもりだったのに、ドアを開けた途端、すり抜けて階段でお座りをしている。こんなことははじめてだった。仕方なく晋之介も同伴させることにした。裾の長いコットン製のコートにマフラー、財布は犬の散歩用ウエストポーチには入れず、コートのポケットに入れた。

「智美」

公園内で智美は身体を揺らして寒さを耐えていた。マスクをしているせいか、わたしの声は届いていない。仕方なく傍まで行き、名前を呼んだが、一行に振り返らないので、肩をとんとんと叩いた。

「ひゃーっびっくりするじゃない!

そう言って智美は、耳からイヤホンを外した。

「イヤホンしてたの」

「当たり前でしょう、寒いし、公園は不気味だし怖いし」

「智美が公園を指定したんだよ」

「そんないいから、早く」

掌を差し出す智美に、財布を渡そうとポケットを探ったが、財布がない。

「もう、信じられない」

智美は散々悪態をつき、わたしから1万円を取ると、タクシーを呼んで何処かへ消えて行った。

「つかれた」

時刻は深夜3時をすぎていた。わたしはしゃがみ込んで頭を抱えた。自宅に戻り、晋之介の足を拭いていると、爪の中が泥まみれで驚いたが、疲労困憊だったのでそのまま寝た。暫くして智美から手紙が届いた。近所の病院に入院しているから見舞いに来て欲しいとのことだ。病院はそう遠くはないが、智美と会うのは気が重い。仕事の都合で行けないと手紙を書き、郵便ポストに入れに行こうと思った矢先、智美からまた手紙が届いた。近所のスーパーの屋上でランチをしないかという内容で日時も指定されていた。しかたなく、わたしはそのスーパーを訪れることにした。

背の小さい智美は、踵までの長さのあるダウンコートを着ていた。屋上のフェンスに両手をかけ、こちらを見ていた。

「久しぶり」

そう言って、わたしは見舞いの品を差し出した。

「わたしの病気知ってる」

智美は見舞いの品を押し戻し、背中を向けた。

「知らないけど、中に着てるの寝間着だよね。、未だ退院してないのに大丈夫」

「大丈夫な訳ないじゃん」

智美はこちらに振り向いた。化粧はしてなく、顔色が悪い。

「わたしさ、子宮がんらしくてね、全摘したんだよ。半年前かな。それで子供が出来ないの。だから別れたんだ。実はね、本当はあっちから別れを切り出されたの。だから、それでイライラしてて、桜花に当たってごめんだよ」

「そ、んな」

「もじもじしてないでこっちにおいでよ」

智美はわたしに手招きした。右足、左足と進めるも、足が強張って思うように前に出ない。

「どうしたの桜花」

智美はクスクス笑い出した。

「ああー、春人くんの浮気のこと気にしてんだ。あれは全部、わたしの想像だよ。結婚式の夜、紗耶香と春人くんのふたりで、どこかに隠れたのは事実だけどね。でも、なんでもないんじゃん。知らないけど」

「そのことは別に気にしてないよ」

「えーっ」

耳に手を当て、智美は声を張り上げた。幸い、だれもいなかったが、わたしは周囲を意識し、智美の場所まで早歩きをした。

「良くいうよね、気にしてないなんて」

「なっなにが?」

「知ってるんだよ、桜花の家に泊まった時、わたしが寝てると思った桜花が、わざわざ知ってることいわないでよ。ってわたしに囁いたの。あの時の声は恐ろしくて寝たふりしちゃったよ。桜花って二重人格なのかな?だれかが、そんなこといってたけど、本当だったんだね」

「二重人格って、誰がいったの?」

わたしはうつむいたままだった。智美は頭を下げてわたしを覗き込み、にたりと笑った。嫌い。そんな言葉がわたしを支配しはじめたが、智美が思わぬ行動を取り、その支配は一瞬で解けた。

「智美?」

智美はフェンスを昇り出していた。低いフェンスなので、2,3段昇り、彼女はフェンスを乗り越え、こちらを向いた。

「なっなにをしてるの?」

「何をって、変な質問しないでよ」

智美はまっすぐにこちらを見て、両手はフェンスを握っている。わたしは片手を伸ばし、ゆっくりと智美に近づいた。智美はふざけたような笑顔で、わたしに手を振った。激しい頭痛がし、意識を失いそうになったが、一瞬で元に戻った。

「わたしね桜花、子供が欲しかったんだよ。あの人の子がね。だからもう終わり」

「終わりって?」

「またその質問?もうこの世から去るってことよ」

「そう」

彼女の目の前まで来て、わたしは手を差し出した。

「これは?」

智美が聞く。緩んでいた頬が引き吊って見える。

「握手」

「握手って何よ」

「変な質問しないでよ。智美」

「ばっばかじゃなの、普通こういう時って止めるんじゃないの」

「わたしは、たぶん普通じゃない。ごめんね」

そう言ってわたしがその場を立ち去ろうとした時、智美に腕を掴まれた。

「なに?」

振り返ると、智美は顔をゆがめて泣いていた。わたしは腕を掴む智美の手首を握り、思い切り力を入れた。痛みで更に顔が変形していく。

「離して、智美」

「離したら、落ちちゃう」

「それが望みなんじゃないの」

「こっ怖い、助けて」

もう片方の手はフェンスを握り締めている。わたしの腕を離したくらいで落ちる訳がない。

「お願い」

痛みに耐え兼ねたのか、智美はわたしの腕を離した。

「じゃあね」

そう言った時、智美は背後によろけ、わたしの襟元を探る様にして、掴んだ。智美の体重で、わたしはフェンスに押し付けられ、智美のもう片方の手がわたしの手を掴んだ。手首がもげるほど痛い。

「あーーーーおちる桜花」

足を踏み外した智美は宙ぶらりんの格好で、わたしにぶら下がって、

「桜花、桜花、あんたは捨てられたんだよ、春人に」

捨て台詞を吐いてから、智美は地上に叩きつけられた。落ちる寸前、智美に手を持たれたわたしは危うく一緒に落ちそうになり、フェンスであばらを強く打った。その時、無意識に自分を守ろうとした瞬間、手が智美の頬に当たり、爪で顔を傷を付けてしまった様だ。

地上から聞こえる人々の叫び声。わたしは肋骨を抑えながら、その場を後にした。家に帰り、晋之介を抱きしめていたら、いつの間にか寝てしまい。起きた時には全ての記憶が消えていた。

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