第40話 わたしはわたしでない

「うんそうかそうか。お前は気づき始めた」

「お婆さん」

わたしはテーブルに両手をついて身を乗り出していた。

「きょう、わたしと会ったのは偶然ですか?」

「はて、偶然でなければならないのか」

「えー?」

わたしは背もたれに身体を預けた。

「偶然と必然は紙一重じゃ。そんな事、気にするな」

「たしかに。そこに執着しても仕方ないかも」

「さて、どこから話そうかのう」

「その前にもうひとつ、聞きたいことが」

わたしは再び、身体をテーブルに近づけた。

「なんじゃ。いくつでも申せ、申せ」

「春人と、その、女性たちは、ここにはいないのですか?」

「いないよ」

「それは、なんで?」

「入りたくとも入れないからじゃよ」

お婆さんは椅子から立ち上がり、手を後ろに組んで歩き出した。

「入れない?」

「そうじゃ、ここには不浄なものは入れんようになっておる」

「不浄、春人は不浄なのですか」

「死んでるからのう」

「そんな」

テーブルに重ね合わせた手を置き、そこに額をつけて俯くわたしの真横に、お婆さんはいた。

「いわゆる天国に行く者も、いわゆる地獄に行く者も、この世界に留まっておったら不浄なのだ。ちゃんとした段取りを踏んで、あの世に渡らなければならない。そうしないと、お前の夫も、あの女も、無限に彷徨う地獄に堕ちる。そうはなって欲しくないだろう?なあ、お前」

「無限に彷徨うなんて」

わたしは顔を上げ、隣に立つお婆さんの手を握り締めた。お婆さんは嫌そうな顔付でわたしを見ていた。

「どうしたらいいのですか。春人をどうしたら救えるのですか。なんでもしますから、どうか教えて下さい」

遠くに犬の遠吠えを聞いた気がする。わたしは春人を守るため、真実の扉を開けるのだと決めた。お婆さんが話し出そうとした時、裏口からひとりの女性が入ってきた。彼女は白衣を纏っていて、すぐに隣の病院の医師だと察した。医師にしては珍しく、長く、癖のある毛を結びもせずに、顔を覆い隠している。

片目だけがこちらを見据え、わたしが挨拶をすると彼女は一瞥しただけで部屋を出て行った。

「ああ、あれはうちの医者じゃ」

「お婆さんの?」

お婆さんはまた煙草に火をつけた。

「あそこの病院、お婆さんの病院なの?」

「そうじゃ。わしもれっきとした医者じゃ」

「そーなんですか」

背もたれに身体を預けたが、すぐに戻した。

「臨床心理士?」

「そうじゃ」

「ふーん、そうなんだ。賢いのですね」

「子供の頃は神童と呼ばれてわい」

「いまのは?」

お婆さんは、女が出て行ったドアを見つめた。

「いまのは娘じゃ」

「そう、お婆さんの娘さんね」

「年を取ってからの子じゃ。悪いか」

「いえいえ、そんなことは。娘さんのお顔は見えなかったし、年齢もわかりませんもの」

正直なところ、彼女はとても若く見えた。何処がと言われても困るが、醸し出される雰囲気が若かった。

「なら良い」

「良い?なにがですか?」

「うーん」

灰皿に煙草を押し付けたお婆さんは、少し背中を曲げて溜息をついた。

「いけないことを聞いてしまったようで、すみません」

「何もお前が謝ることはない。わしに不都合なことでもない」

「あ、はい」

「何か感じたか?」

「何かと申されますと?」

「娘から」

「娘さんから、そうですね」

なぜ髪の毛を括らないのかと疑問に思ったが、顔に怪我やアザがあるのか。それとも他に、わたしに顔を見られたくない事情があるのではと、しかしその疑問は封印した。わたしは顎に、曲げた人差し指の関節を当て、考えた。

「目が合っただろう」

「はい。一瞬だけですが」

「その目に見覚えは?」

「うーん」

わたしは再び同じ格好で考えはじめた。お婆さんは短めの腕と足を組み、わたしを見ていた。

「どうかな?わかりません」

目と言っても片目だけで、それも一瞬の事だった。猫背な体形は、彼女の性格から来るものなのか。伏し目がちにこちらを見た彼女が、わたしと何の関係があると言うのか。

「教えて下さい」

「思い出すまで答えないよ」

「そんなことを言われても」

「まあ良い、先にお前の話しをしよう」

「あ、はい」

わたしは背筋を伸ばし、お婆さんの言葉に集中した。

「話さなければならない事はいくつもあるが、最初は軽めの京おんなの話しとするか」

「京おんなって、紗耶香。お婆さん、紗耶香を知ってるの?」

「紗耶香というのか、あの娘。ハイカラな気立ての良い子が映っておる」

「どこに?」

わたしは背後にスクリーンでもあるのかと振り返りったが、もちろんそこには何もなかった。わたしはゆっくり身体の向きを元の位置に戻して、お婆さんと向き合った。お婆さんは呆れた様にわたしを見ていた。しかしその眼差しはとてもやさしかった事を、わたしはいまでも思い出す。

「紗耶香と言ったかのう、その京おんなは」

わたしは黙ってうなずいた。

「喧嘩をした」

「はい、お恥ずかしい」

「そうか」

「あの、だからなんで知ってるのですか?透視能力……」

「透視。そういう表現が適当かも知れぬな」

「紗耶香のことも見えるのでしょう?喧嘩をしているのも?」

「お前が喧嘩の内容を覚えていないこともな。覚えているのか」

「いいえ」

わたしは首を振ったあと俯きそうになったが、気を取り直し、しっかり前を見据えた。

「同じような体験を、整形美女ともしている」

「せっ整形美女?」

由香里の事と気づいたが、名前を出すのは躊躇った。

「お前はそのふたりの友人との間で小競り合いとなり、相手に傷を負わせたのだな」

「その通りです」

「しかしそれは、相手が主張していることで、真実はわからない」

「いっいえ…」

「とも思っておる?」

わたしはお婆さんから目を逸らし、微かな隙間風で揺れる影の方に視線を移した。友達の言葉を疑っているようで後ろめたい。

「記憶がないので」

「なぜ記憶がないと思う?」

「病気ではないかと夫は……」

彼女にはわたしの幼少期もお見通しなのだろうか。上目遣いにお婆さんを見ると、彼女は微動だにせずわたしを見つめていた。

「病気、そうかも知れぬ。一種の病気じゃ、入れ替わったのだ。気弱な自分を隠し、守って貰うためにな。生きる為」

「……入れ替わり?」

どういう意味だろう。頭の天辺がズキズキと痛みはじめていた。

「もしお婆さんが本当に透視できるのなら」

「あら、疑われてる?」

「いいえ、そういうことでは。しかし全てを信じろと言われても。ごめんなさい。急に頭が痛い」

「まあ、それも仕方がない。都合の悪い真実を言われる前の防御策じゃ。その片頭痛もな。入れ替わりの前兆」

「え……」

「そうやってすぐに俯く。お前の悪い癖じゃ。ほほう、どうやら入れ替わらんらしいのう。気弱なお前が勝っているのか」

「頭が痛くて」

わたしは頭を撫でた。痛みが増して来ている。同時に心臓の鼓動も早まっていた。横になりたい。そう思っていた。

「言っただろう、頭痛は前触れじゃ」

「前触れって?」

「これまでの何度か激しい頭痛に襲われ、その後、変事が起きる」

「ふだん頭痛なんて全然。でも、激しい頭痛はあった。腹が立った時など」

「怒りがストレスとなり、頭痛となる。しかし思っていることを素直に口に出して抗議するのが苦手なお前は、自分の中に、もうひとつの人格を作り、その女に戦わせた」

「別人格?」

「幼少期から小学生、その辺り、お前の中に別人格が作られた」

「信じられない」

「別人格を作り出し、現実逃避するのは、左程、難しいことではない。ゆっくり思い起こせばわかること。あの夜もそうだった」

「あの夜とは、紗耶香を呼び出した夜のことですね」

言った後、両手を膝に揃えて置いた。不思議な程、頭痛は治まり、胸の鼓動も通常に戻っていた。正常だった。正常というのは、わたしが決めた正常で、わたしのいまの姿を見た他人がどう思うかは、別問題であった。

「気分はどうじゃ?」

「話しを変えないで下さい。さあ、話しの続きを」

笑みを浮かべる余裕も出て来た。訳もなく何もかもが無敵に思えた。

「京おんなを寺に呼び出したはお前じゃな?」

「紗耶香がそう言うのなら、そうなのでしょう」

思い出した。わたしはあの夜、紗耶香を高台寺に呼び出していた。

「ほほう、思い出したかね」

「ええ、たぶん」

「自信に満ちた顔じゃな。さっきのお前とは正反対だ。入れ替っちまったが、なんとも中途半端じゃのう。理性が勝っている」

「わたしはいつもおとなしくて」

「本当の自分は違うと?」

「きっと、もっと積極的だと思うのです」

わたしはテーブルから椅子を離し足を組んだ。そして胸の中にあったトートバックを見つめた。

「こんな物、大事に抱え込んでいた」

「こんな物?大事な物ではないのか」

「これは春人に貰ったの」

「思い出の品じゃな」

「思い出ね、春人は浮気していたけど」

足を組みかえたわたしは、親指の爪を噛み始めた。爪を噛むなんて行為は、子供の頃以来だと、その時そう思った。

「なぜ春人が浮気していたと思う?相手は誰じゃ」

わたしはお婆さんに向かって微笑んだ。

「知ってるんでしょうお婆さん?透視家なんだから」

「文字にせんと違う意味での「とうしか」になるな」

「誤魔化さないで答えて。春人は浮気していたの?」

「困ったもんじゃ」

お婆さんは頭を揺すってから腕組みを解き、短めの指が並んだ手を開いてテーブルに置いた。

「あの夜、お前は友達を呼び出すと、相手に弁解の余地を与えず詰め寄り、最終的に拳で殴り倒し、倒れた女の上に乗って顔を爪で引掻いた」

お婆さんが話す内容と同時に、その時の映像が浮かび上がってきた。悍ましく、醜い映像が。

「遠吠えが」

わたしは耳に手をやり、目を瞑った。あの夜に聞いた、悲しい遠吠えが聞こえて来た。

「遠吠えを聞いたお前は我に戻り、駆け足で宿に戻った。いや、我に返ったのではなく、現実を隠すために作り上げた別人格を呼び出した」

「そして、浴衣に着替えて布団に入った」

「一部始終を」

「晋之介が」

「そうじゃ。お前の愛犬の晋之介は、お前が出て行くのを阻止しようとしたのだが、振り切られ、部屋に閉じ込められた。無事に帰ったお前を見て安堵しておる」

「晋之介」

わたしは目を開け、身体を抱え身震いをした。

「晋之介はその時、春人に憑依されていたのでしょうか?」

お婆さんは首を横に振った。

「そこはわからぬ。わからぬが、飼い主の異変を気づいていたのは事実のようじゃ」

「かわいそうに」

涙が落ちた時、わたしは全てを思い出した。

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