第37話 函館のこと
仕事を完全に辞めてしまったわたしは、有り余る時間を晋之介の為に使用すると決めていた。手始めに、もしもの時の保険として、わたしの代わりに晋之介を最期まで面倒を見てくれる施設の検索だった。
目ぼしを付けた所を何軒か当たったが、どれも心許ない。相手が犬だけに、金銭だけを取られ、犬は雑に扱われ、最悪の場合は保健所なんて事もあり得る。緊急事態宣言下ということもあり、実際に施設に向かい、職員に会い、施設を見学することが叶わないのもつらい現実だった。
春人がいなくなって3日が過ぎていた。物音や、微かな気配を感じ振り向く事はあるが、姿は見えなかった。
「どこに行っちゃったんだろうね、春人くん」
晋之介にご飯を与え、その様子をしゃがんで見ていた。頭を撫でると、食事中でも目を細める。この子の残りの命を、精一杯のしあわせで彩ってあげたいと考えていたのに、いまのわたしは晋之介の将来を見届けてくれる人を探している。なんて無責任な飼い主なのだろう。情けなくて泣きたくなった。閉じた瞼の裏に、晋之介と過ごした日々が蘇ってくる。
「わたしだって、できたらこのまま一緒に暮らしたい」
涙が晋之介の頭に落ちた時、春人の声がした。
「そうしたらいいじゃない」
「えーっ?」
空耳かと声のする方に振り向くと、春人が流し台の上に足を組んで座っていた。
「そんなところに」
わたしは立ち上がって春人を見た。安らぎを感じる。全身の力が抜けて行った。ご飯を食べ終えた晋之介はお座りの恰好になり、口の周りを舐めている。
「晋之介、春人くんが帰ってきてくれたよ。良かったね」
わたしの言葉に反応を示した晋之介は、春人の所へゆき、膝に前足を乗せた2本立ちで喜んでいる。
「どこに行ってたか聞かないの?」
「どこかのお空を飛んるのかなって」
「桜花はむかしから、僕が遅く帰っても、帰らなくても、何も聞かなかったね」
どうしてだろう。春人の言葉が直接、耳に伝わらない。空気の中に文字が浮かんでいるのを読んでいるような妙な感覚だ。
「聞かれて困ることもないと思っていたし、だから敢えて聞かなったの。聞いた方が良かったのかな?」
「いや、詮索されないのも善し悪しだと思ったんだよ、その時は。でもね、死んでから、桜花の子供時代のことを知る機会があり」
「わたしの子供時代を?」
「そう、ふわっと時代を超えて君の子供時代に行き、空中から、その様子を見ている。その生活の中に、君のお父さんとお母さんの遣り取りがあり、お父さんが帰宅するたびに、お母さんが詰問していて、それでお父さんが再び家を飛び出してしまう。そんな様子をね」
「覚えてる」
わたしはぼんやりと答え、その場に座り込んだ。何度も目にした陰鬱な光景が思い出され、吐き気を催す。後ろめたい父の背中に叫ぶ母のヒステリックな声、嫌いだった。
幼い妹と弟を部屋に連れて行き、ベッドに寝かせ、絵本を読んであげても、幼いふたりはシクシク泣いていた。もうやめてと、何度も声に出したかったが、大人たちの争いは恐怖であり、その勇気が持てなかった。
父はどうして他に女を作るのだろう。母はどうして見て見ぬふりが出来ないのだろう。普段はおとなしく、慎ましやかな母が嫉妬に狂う姿は、醜かったし、いちばんの悪である父は、とても無様だった。
「あまり怒ると、お父さんはまた家を出て行くよ」
「お母さん、なんで我慢できないの」
もちろん母に対しての怒りなんてない。ただ、もう少しだけ、女の部分を消して、子供たちの母親としての威厳と自信を見せて欲しかった。恋に悩み苦しむ母親の姿なんて見たくない。
この家庭を崩壊させているのは、父と母、ふたりだ。
「違う、もうひとりいた」
20年近く忘れていた存在。そう父の愛人の乃扶子(のぶこ)。
「はっ」
顔を上げると、目の前に春人の顔があった。眉を下げ、顔をゆがめている。まるでわたしの心の中の思い出を共有しているかのような悲しい顔。
「少し休もう」
春人の言葉に、わたしは素直に従った。
リビングのソファーに横になり、瞼を閉じると、あの日の光景が再びフラッシュバックしてきた。そう、あの日、母が電話で乃扶子と話していた光景。母は穏やかだった。時折笑いを交え、父への復讐をふたりで成し遂げるのだと語っていた。「一緒にとっちめてあげましょうよ」母はそう言っていた。本妻と愛人が仲直り。わたしは訳もわからないまま、隣の部屋から漏れてくる母の言葉を聞いていた。
しかし、それから僅か2日後だったか、乃扶子が裏切り、母との会話の内容を父にぶちまけた。父は自分の犯している罪を顧みず、母を責めた。母は何も反論しなかった。それこそ親友にでも裏切られた様な絶望の縁に立っているように、肩を落とし、やつれ、台所の隅で野菜を切っていた。
母は苦労人だった。父とは違い、実家はとても貧困で、中学を出てすぐに働きに出された。とても良く働く人で、住み込みの職場では重宝されていたらしい。そんな母には大きな学歴コンプレックスがあった。小学生の頃に口減らしの為、親戚の家に預けられた。しかしそこでは厳格な躾を叩きこまれ、勉学に励み、大学まで進む道を約束され、本人も進学を切望していた。しかし中学卒業間近になると、実家の生活を助ける為に、親戚の家から有無もなく連れ戻され、夢を断念せざる得なかったのだ。母の受けた落胆は計り知れないものだった。
それとは相反(そうはん)して、乃扶子は九州のごく一般的な家庭で育ち、北海道の国立大学を卒業している。この学歴が、母をより一層惨めにしていた。
父の実家はいわゆる裕福層に部類し、名誉心が強い家系だ。父親自身も東京の一流大学を卒業し、地元北海道に帰ってからも、祖父の地盤を継いだ事業を拡大させ、若い頃からの夢だった作家デビューも果たし、作家業だけでも十分な収入を得られる程になっていた。
そんな父と母の出会いは、学生時代に遡る。大学付近の食堂で働いていた母を父が見初めたというのだ。身分の違いを理由に交際を断り続けた母だが、2年にも及ぶ熱心な申し入れで、彼女の心は次第にほだされて行った。そのうち、北海道を案内したいとの父の言葉を受け、母は単身、函館に旅行に出掛けた。しかし函館駅に着いたその日のうちに、半ば強制的といってもいいだろう、父方の両親と会わされた。母と結婚したいという父の強い想いを酌んだ祖父母は、母の身辺捜査を念入りに済ませると、彼女を櫻井家の嫁として迎え入れることを許した。
母方の実家は九州で、祖父は母が小学生の頃に他界しているが、祖母は健在だった。母には姉がふたり、弟がふたりいたが、その頃、みんな独立していた。結局、父の卒業と同時に母は父と結婚し、祖母を連れて函館へ。当時まだ40代だった祖母は家にじっとしていられず、祖父の会社の掃除婦として雇われた。祖母は根っからの貧乏性で、働き者なのだ。祖母はなんでも買ってくれてやさしかった。快活な祖母とは正反対なのが、父方の祖母だった。信心深い、おっとりとした性格で上品を絵に描いた人だった。逆に闊達な母方の祖母はお酒が大好きで、晩酌を楽しみに生きているような人だったが、時に飲みすぎ、羽目を外し、近所でトラブルを起こしては、母を十分悩ませた。後に函館の祖父母が病気で亡くなり、母方の祖母も長い入院生活の末、身罷った。
その翌年のことである。父が乃扶子と心中し、母が弟を殺して自殺したのは。
「お金持ちでなくていい、やさしい人と結婚するのよ」
母はいつもそう言っていた。
母は父と結婚してしあわせだったのだろうか。わたしには、そうは思えない。好きな人が他の人を愛したのなら、身を引いた方がしあわせなのでは。その当時から、わたしはそう信じている。なので春人の帰宅云々を議論する気はなかったし、それはとてつもなく不毛だと知っていた。知っていたのに……
「わたしは嫉妬深いのかもね」
春人は答えなかった。
「みっともないのは嫌だな」
「心の内を話せない環境を僕が作った」
「春人が見て来た、わたしの母に、わたし似てる?」
「顔形はそうでもないね」
「父親似なの。外見はね」
「君とお母さんは、目の奥が似ていると感じた」
「それは、嫉妬の時?」
「うん、とても似ている」
椅子に腰掛けていた春人は両手で顔を覆った。
その姿を見て、春人がなぜこの世に残ることになったのか、なんとなくわかった気がした。わたしの変貌を見た春人は自殺した。あの時の母と同じように。わたしは春人が死ぬことで、春人に捨てられたのだと思ってきた。しかし実際はどうなのだろう。寧ろ生きる選択肢は彼にあったのか。もしかしたら死を余儀なくされた。なので彼はこの世に未練を持っている。
そう、春人は死にたくなんてなかったのだ。
「全て話すよ」
春人は唇を軽く噛んでからそう言った。
全てを話す前にふたりでやって置きたい事があると春人は言った。それは函館の実家の墓参りと、晋之介を連れた北海道旅行だという。北海道へ行くことは春人の念願だった。ましてや今回は晋之介もいる。わたしたちふたりは最寄り駅の旅行会社にあるパンフレットを持ち帰り、それをテーブルに広げ、あれやこれやと語り合った。その時間の愉しかった事。いまでも鮮明に、記憶に残っている。
旅行前日、突然、春人の姿が見えなくなった。またぷらっと何処かを飛んでるのか。
「明日までには帰ってくる」
と、気楽に考える事にしたわたしは、晋之介を連れて夕方の散歩に出掛けた。
陽が落ちた曇り空なのに、風がなく蒸し暑い。時折、麦わら帽子を上げ、額の汗を拭いながら歩いていると、見た事もない看板が目に入った。
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