第36話 狼狽

帰宅し、軽くシャワーを浴びてからベッドに入った。寝室にあるキャンプ用の犬用ベッドに寝ている晋之介の横に布団を敷き、春人はそこで横になるのが日常だった。睡眠は取らないと言っていた。だからとても暇だと感じる時があると。生きている頃は、24時間では足りないと思っていたのに、死んでしまうと、やる事が限られ、それこそ誰かに恨みを抱いたまま死に、怨念を燃やしているのなら、集中力も途切れないだろうが、漂うようにこの世に残ってしまった春人は、無限に続くであろうこの疎外感に耐える事が罪と罰の罰なのかと、そう思うのだと、いつだか語っていた。

「春人、寝た?」

「ううん」

「そうだった、ごめん」

つい忘れて、こんな言葉を投げてしまう自分の不甲斐なさを嘆く。わたしは壁に向いていた身体を春人の方に寝返り、月明りの横顔を見た。綺麗な寝顔をしている。厳密には目を瞑ってるだけで寝てはいないのだが、寝ているようだった。思い出した。前に住んでいたのマンションの寝室で、寝ているように死んでいた春人の顔と、棺桶の中の春人を。今夜のように、とても穏やかだった。

春人の名を呼んでおきながら、わたしは暫くの間、黙っていた。話したいことの整理は出来ているのに、話し出す勇気がない。そんなわたしの気持ちを察したのか、春人が先に口を開いた。

「あの公園で由香里から聞いたことなんだけどね」

そこまで言うと春人は上体を起こした。

「なんでも言って、わたし覚悟は出来ているから」

「うん」

うなずき、春人はわたしを見た。月が雲に隠れたのか、彼の表情を読み解くことはできない。

「きっと、由香里の言ったことの半分は本当だよ」

「半分?」

わたしも起き上がり、春人を凝視した。

「どういうこと、半分って」

春人は足の間で組んだ手を弄んでいる。首を垂れ、とても疲れて見えた。

「あの騒動の数日前に、由香里が君に変な事を言いだしたんだよ」

「変なこと?」

「うん、実は仕事で、君の働く病院の近くに行った時、ばったり由香里と出会ったんだ。ほら、近所にあるイタリアン覚えてる?」

ウエイターがイケメン揃いと、女性客が列を作るイタリアンレストランの事を春人は言っていた。ちなみに味の評価も高い。

「そこに並んでいたら由香里から声を掛けられた。それで、由香里にせがまれ、仕方なくというか、ふたりで食事をすることになり、だけど、たったそれだけなのに、それから日に何回も、電話やメールが来るようになり。うっかり携帯電話の番号を教えた僕にも非はあるけど。本当にうんざりしてたら、腹を立てた由香里が、君に余計なメールをした」

「わたしに」

由香里からのメールが届いていた事実さえ記憶にない。春人は続けた。

「これから話すことは、あの騒動が落ち着いた頃に、由香里から聞きだしたことなんだけど、知りたい?」

「うん、是非」

「由香里から君に届けられたメールの内容ってのを実際に見せて貰ったんだ。そこには、君を逆上させるのに十分な嘘が書かれていた。そのメールに関するものは、僕が君のスマホを勝手に操作して消去したけど、ごめん」

「そう、だったの」

「由香里から、君と3人で話したいと誘われ、僕たちは別々に由香里のマンションに行った。ここまでは聞いた?」

「その後、すぐにわたしが襲い掛かったって」

「うそうそ」

春人は首を振り、手で虫を払うような仕草をした。

「最初に手を出したのは由香里の方だよ」

「えっそうなの……」

「覚えてない?その位の時期、君は顔を腫らして病院を休んでた。由香里に殴られて」

わたしは無意識に顔をさわっていた。しかし由香里に殴られた記憶も、自分が襲い掛かった記憶も、その後の顔の腫れの記憶さえも残ってない。

「それで君が逆上し、由香里を押し倒して首を絞めた。正当防衛だよ」

「でも、ふつう首なんて締めない」

わたしは今度、自分の首をさわっていた。

「良く考えてみな。桜花もそこそこ背が高いけど、細見でどちらかというと頼りない。しかし由香里は体躯がしっかりしていて、たぶん力も強い。首を絞めたのは、体力差のある君が取った防衛本能だよ」

春人の言葉をどこまで信じて良いのか、その時のわたしにはわからなかった。疑心暗鬼が自分を苦しめていた。

「わたしは、何故記憶を失くしてしまうのかな」

ぼそぼそと呟くように言うわたしの言葉を聞き取ろうと、春人は耳を傾けてくれた。わたしはベッドから足を下ろして腰掛けた。

「きっと、それは幼少期のつらい記憶のせいだと思う」

「幼少期の?」

「そう、僕は知っての通り、臨床医学が専門ではないけど、学生の頃に興味を持って調べたんだ。人間の脳はね、時にとても都合が良く出来ていて、心身に負担になる思い出を意図的に消したりするんだよ、解離性健忘みたいなね」

「解離性健忘、わたしが、それなの?」

「断言はできないけど、そうじゃないかって」

「いつから?」

「ん?」

「いつからわたしがそういう病だって気づいてたの?」

「それは、最近だよ」

「春人」

わたしはベッドから降りて、春人の布団の上に正座した。春人はまた、わたしから目を逸らしてしまった。嘘を隠そうとしているのがわかる。

「もしかして学生の頃から、わたしそうだったの?」

「ちがう、ちがう」

今度は春人がベッドに腰掛けた。色白の春人の肌だけが暗闇に浮いて見える。

「わたし、病院に行こうかな」

「それがいい。病院に行って検査をして貰ったほうがいい」

そこだけ、春人はきっぱりと言い切った。

「そう。でもね春人、わたし由香里の他にも人を傷つけて」

「それだって、どうかな」

春人の動揺が伝わって来た。生きている時とまるで同じ、動揺を隠そうとすればするほど、違和感が出る。

「春人」

腰を曲げて膝に腕を置く彼の顔を覗き込んだ。彼は目を伏せている。

「紗耶香とのいさかいの内容を聞かないの?」

「それは」

「ねえ、春人はどこまで知ってるの?お願い、教えて」

「待ってくれ」

組んでいた春人の指先に力が入った。わたしは更に詰め寄った。

「知っていることがあるのなら隠さないで欲しい。わたし本当に大丈夫だから」

「大丈夫なんかじゃない」

春人は立ち上がった。これまで一度も見たことのない夫の狼狽。わたしはそれ以上、何も言うことができなかった。真実に耐えうる精神を、わたしが持ち得てないと春人は思っている。確かにわたしは弱い人間だ。しかし、自分の知らないところで意識が働き、人を傷つけ、もしや死に至らしめる行動を取っているのだとしたら、わたしはその事実に直面するしかないのだ。例え晋之介をひとりぼっちにしてしうまう事になっても。

「晋之介が可哀想だろう」

その夜、春人はそう言い残し、姿を消してしまった。

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