第35話 由香里の自殺
「君が気にすることはない」
自宅に戻っても言葉数の少ないわたしに気を使っている春人の口調は硬かった。いつもなら近寄って来て、肩でも抱いてくれるのに、落ち着いた態度で、俯瞰してわたしを見ている。
「由香里、自殺するようには見えなかったの」
「だったら誰かに殺されたとでも?」
台所でグラスを洗っていたわたしは、その言葉でグラスを落としてしまった。
「大丈夫?」
春人はわたしの背後に立ち、シンクの中で割れたグラスを覗いた。
「危ないからあっちに行ってて」
わたしを軽く押し、春人は敷いたペーパータオルの上にガラス片を並べた。
「春人は傷、しないの?」
「幽霊だからね、これ以上は傷付かない」
「心も身体も両方?」
「ん…」
春人は動きを止め、シンクに両手を預けて身体を支え、こちらを見た。
「どういう意味?」
静かな声だった。
「春人はガラスで傷つかず、人の死でも傷つかないのって、そう思って……」
「ふふふ」
こういう人を馬鹿にしたような笑い方は、いつからだっただろう。深く首を垂れ、顔を見せないで鼻で笑う。この笑い方を聞いた途端、彼が死ぬまでの数か月間のわたしたち夫婦の亀裂が、次々とフラッシュバックしてきた。
「その笑い方やめて」
「ごめん、気に入らなかった」
春人は顔を上げた。口元は笑っているが、目が冷めている。
「その笑い、わたしが嫌いなの知ってて、やってるでしょう」
「そんなこと、ある訳ない」
広告のチラシをリビングから持って来た春人は、ガラスの破片をそれに包み、その上からメモ用紙を貼り、ガラス危険と書いた。
カウンターテーブルの椅子に腰掛けたわたしは、両肘をテーブルについて春人の行動を見ていた。春人に会えたことの喜びで、彼との黒い思い出を封印していたのかも知れない。とはいえ、春人に何か理不尽なことをされたり、暴言を吐かれたりした訳ではない。ただただ「無視」という無限地獄の日々を送らざる得ない状況を作られただけだ。
「さあ、片づけも終わったし、寝る前の散歩にでも出ようか」
春人はテーブルに片手を付き、足元にやってきた晋之介に目線を落とした。
「ほら、晋之介も散歩に行きたいって言ってるよ」
「……」
「いつまでも不毛な議論をしてもしょうがない。由香里のことは不幸だけど、僕たちには関わりのないことなんだ。こんな事を言うと、君はまた冷たいと僕を責めるんだろうけど。考えたってどうしようもない事もあるんだよ」
「そうね」
深夜11時、わたしたちは犬の散歩に出掛けた。夜の散歩は天気が良ければ10分程度。雨の日は1分もかからない間に用を足した晋之介は自宅へ駆けあがる。
「どこ行くの、コンビニ」
いつもとは違う散歩道を選んだわたしに春人が聞いた。
「ううん、公園に行こうと」
「公園って、夜は行かないんじゃないの」
「そうだけど、いまは春人がいてくれるから怖くないし、今夜は蒸し暑くないから、少し長めの散歩がしたいのよ」
「そっか」
春人はわたしの後ろを歩いている。晋之介のリードはわたしのウエストポーチに繋がっているので、3人並んで歩くには歩道が狭い。
「公園、暗いね」
公園の入り口に来ると、わたしは足を止め、中に人がいないか眺めた。
「ほら、行こう」
今度は春人が先に立って歩いた。こじんまりな公園のブランコに乗り、こちらを見ている。わたしも春人の隣のブランコに乗った。
「ブランコの他に何もない公園て珍しいよね」
「このブランコも6月頃に出来たのよ。それまではベンチとトイレがあるだけ」
「どうして急にブランコを?」
「地元の有志の寄贈と聞いたわ」
「ブランコができると、子供たちも増えるんじゃない」
「いまのところそうでもない。近所に子供用の公園があるし、そこはあらゆる遊具が揃ってるから、お子さんを連れた方は、そっちに行ってるみたい」
「だったらここはカップルの場所になるね」
「そうね」
わたしは晋之介のリードを春人に渡すと、ブランコを大きく漕いだ。
「あぶないよ」
「あぶなくないよー」
慎重な春人は死んでからも慎重だった。たまに顔を見ると、眉間を寄せて、こちらを見ている。
「このブランコ、12キロ未満て書いてあるけど、桜花は何キロ?」
「えっ、え、え、」
167センチ、48キロのわたしは慌てて足を踏ん張り、ブレーキを掛けた。
「大丈夫かな?」
ブランコを降りて、鎖の状態などを見た。
「大丈夫だよ。真新しいし」
春人はブランコから降りると、わたしの頭を撫でた。
「ここに来たのって、僕になにか伝えたいことがあったからじゃないの?」
春人は背中を向けていた。晋之介のリードを手首に通し、ポケットに手を入れている。晋之介は春人と同じ方向に身体を向けて座っていたが、顔はこちらを見ていた。
「うん、春人はいやかも知れないけど、由香里の話し」
「そうだと思った」
春人は大きく伸びをした。すると晋之介のリードが持ち上がり、晋之介が迷惑そうに立ち上がった。
「勘違いしないでよ」
こちらを向いて、春人は微笑んだ。
「別に由香里の話しをしたくない訳ではない。ただ、桜花があまりに落ち込んでいたから。それでね、あんな言い方になっただけで」
「わたしね、由香里とここで会ってたの」
春人の顔色が変わった。目線を横にずらし、胸で大きく溜息をついた。
「ほんのひと月前。由香里が会いたいって言って来たから仕方なく」
「そう」
「春人、知ってるのかと思ってた」
「知らないよ。いつも桜花の傍にいられた訳ではないから」
「他愛もない話をして、そしてここで別れた。由香里、自殺するようには見えなかったよ」
ブランコに腰掛け、鎖に腕を回して、足元を見た。
「春人も座ったら。大きく揺らさなかったら壊れたりしないから」
「うん」
「あっ、なんかごめん。壊れないわよね。ごめんね」
「謝らないでよ。そもそも僕は幽霊なんだから、そんなの自覚しているし、謝られたり、気を使われたりするのは、もっとしんどい」
「そっか、そうだね」
春人がブランコに腰掛けるのを目で追い、わたしは少しだけ足を動かしてブランコを揺らした。春人に話さなければならない。あの日、由香里と話した、わたしの事情。智美の財布をこの公園で見つけたこと。警官がうちに来たこと。任意の事情聴取を受けたこと。紗耶香と喧嘩していることと、その理由。果たして春人はどこまで知っているのだろうか。もしかしたら全てを承知した上でわたしと対峙しているのではないか。ふんわりとした疑念が、いまは確信に変わっている。そして驚いたことに、わたしはこんなに物事に執着する人間だった。
「それで、由香里と何を話したの?」
「あの日、由香里がね、むかしわたしに暴力を振るわれたんだ、と言ったの。嘘じゃないと思う。心当たりがあるのよ」
「覚えてるの?」
春人はちらりとこちらを見た。
「ううん」
わたしは首を振り、春人を見た。春人の表情は沈んでいた。
「質の悪い事に、何も覚えてないの。由香里が言うには、春人と由香里の間を疑ったわたしが、由香里のマンションまで乗り込んで行って、由香里の首を絞めたって……」
「そんなこと」
「そうしたら危機一髪のところで春人が来て、わたしを止めた」
「……」
「そうなの?」
わたしから視線を逸らした春人は正面を、ぼんやり見ていた。
「覚えてないんでしょう?」
「可笑しな事に、なにも覚えてない」
「だとしたら、それは事実じゃないんじゃない」
春人は前を向いたままだった。
「でも、他にも同じようなことを、わたしにされたって言う人物がいて」
「その人も嘘をついているとか」
「春人、こっちを向いて話して」
春人はうなずくと、そっとこちらを向いた。暗いせいか、春人の顔の右半分が暗闇にまみれている。
「紗耶香にもそう言われたんだよ」
「そう」
春人の表情が凍っていくのがわかる。
「紗耶香の勘違いなんじゃ」
「紗耶香のことだけじゃない。智美が死んだの知ってるよね?自殺とか、他殺と言われ、未だ決着がついてないんだよ」
「自殺でしょう」
「なんでそう思うの。わたしの家に泊まった次の日に失踪して、ここからそう遠くないスーパーの屋上から飛び降りたんだよ」
わたしの話しを聞く春人は終始、顔を横に振っていた。
「わたし思うの。これらの全ての事件に、わたしが関わっていて、智美を自殺に追い込んだのはわたしなんじゃないかって」
「やめろ」
春人は小さく言った。
「時期に警察が来て、わたしは逮捕される。そうしたら晋之介はどうなるんだろうって考えると怖くて、怖くて」
わたしが泣き出すと、晋之介が心配そうに寄って来た。そしてわたしの膝に顔を置いた。
「わたし、自分のことばかり考えてる。由香里のことも、智美のことも、紗耶香のことも、本当はどうでも良くて、心配なのは、わたしに従順な犬のことだけ」
「桜花」
春人は立って、わたしに手を差し出した。
「帰ろう。疲れてるんだよ、だから考えすぎる」
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