第33話 幽霊夫と温泉旅

春人の話しによると、殆どの人には春人が見えないらしい。なので宿泊代がひとり分浮いたと、彼はふざけていた。

「ねえ、幽霊はお風呂は入るの?」

襖を隔てた寝室で浴衣に着替えながら、わたしは聞いた。夫婦として過ごしたあの頃であっても、わたしは春人の前で着替えをしたり、ましてやお風呂にふたりで入ったりしたことがない。友人に言わせると、わたしは究極の恥ずかしがり屋らしい。春人もそういうわたしを意識してか、風呂上りにパンツ一丁なんてこともなく、いつも衣服を纏っていてくれていた。自宅なのに、気を遣わせていたことを反省する。

「風呂は入ったことはないけど、きょうは挑戦してみるかな?っていうか、幽霊て呼び方、やめてくれない」

「ごめんごめん、悪気はないのよ。それより入るのは男湯?女湯?」

襖の端から顔だけ覗かせると、春人は手をふって笑った。

「桜花が恥ずかしがるから男湯にするよ」

「そうして下さい」

着替えが終わり、居間に出ると、春人は大袈裟に手を叩き、わたしの浴衣姿を絶賛してくれた。

「最初はわたしにも春人が見えなかったんでしょう。一体なんの切欠で、突然、見える様になったのだろう?」

お風呂までの長い廊下を、春人と一緒に歩いていた。

「もしかしたら最初から、君に僕は見えていたのかも知れない。だけどホームセンターでの君は、晋之介だけに意識が集中していたし、その上、僕が隠れたから。それで桜花に僕は見えないんだって勝手に勘違いしたんだ。でもきょう勇気を出して君の前に表れ、桜花には僕が見えるのだと知った」

それを聞いて、わたしは静かに瞬きをした。お風呂までの廊下、わたしの少し後ろを春人は歩いている。途中ですれ違った人もいたが、彼は身軽に避けていた。避けないと、やはりぶつかるのかと聞いたら、通常の場合、相手は何も感じることなく通り抜けるのだが、霊感のそこそこある人は、無意識に自分を避けたり、違和感を感じた顔つきをしたりするらしい。霊感の強い人は、春人を意識し、目線で挨拶をしてくれるので、ぶつかりはしない。ただ人が自分の身体を通り抜ける感覚というのは、例えるのなら全身が痺れる様な感じで気持ちが悪いので嫌だと言っていた。

「そうすると、さっきわたしが触れた時は、痺れて気持ち悪かった?」

「それが不思議でね、そんなことがないんだよ。桜花に触れられると、生きている時の肌の感触がするんだ」

「そうか、良かった」

女湯の暖簾をくぐる前に春人にバイバイと手を振ったら、周りの宿泊客が四方八方を見渡し、首を傾げていた。気を付けなければ変な人と思われる。

15分くらいでお湯から上がり、暖簾をくぐり表に出たが、そこに春人の姿はなかった。わたしは自然と早歩きになり、自分の泊まる部屋まで走った。

「春人!」

扉を引いて中に入ると、晋之介がドッグフードを食べていた。

「ああ、晋之介」

畳に横座りになり、ご飯を食べる晋之介の頭を撫でた。

「晋之介、きょうはずっと眠っているし、もう目覚めないんじゃないかと不安になったよ。春人に聞いたら、憑依をしても、晋之介の身体に何ら負担はかからないと言っていたから、安心もあるんだけど」

そうやって晋之介に話しかけていたら、客室の扉がガタリと動いた。

「春人?」

振り向きざまに声を掛けると、お夕飯のご用意をしてもよろしいでしょうか?と仲居さんが答えた。気落ち気味に、はいと返事をし、床に置きっ放しになっていた旅館の温泉セットを片付けた。


「豪勢な料理だね。これ、ひとりで食べるの?」

「春人」

いただきますと、手を合わせて顔を上げると、テーブルを挟んで春人がいた。木製のテーブルの上で腕を組み、料理を見渡している。

「そうだよ。食べたい?」

言いながら晋之介を探した。晋之介は部屋の端の座布団の上で寛いでいる。

「お言葉に甘えて食べようかな」

「本当に!じゃあ一緒に食べよう」

身を乗り出したわたしに、春人は手をふって笑った。

「腹は空かないんだ。ただ美味しそうだなとは思う」

「うーん、咽喉は乾く?ビールは?」

「喉も乾かない。口に何かを含むことを身体が拒否してる」

「そう」

やはり生きてる人間とは違う。彼を、とても不憫に思った。乗り出していた身体を戻すと、両方の肩の力が抜けてゆくのを感じた。

「だから気にしなくていいんだよ。僕はかなり経済的ってこと」

「そうね、うん」

乾杯をしてから、もうひとつの疑問をぶつけた。春人は後ろ手をつき、両足を伸ばした格好でリラックスしていた。

「夜は眠くなる?」

「うーん」

顎に手をあて、考える仕草をしている。

「そうだね、欲というものがなくなったのかも」

「欲?」

「うん」

春人は姿勢を正し、胡坐を組んだ。

「睡眠欲、食欲、そして……、まっいっか。そんなとこだね」


それからわたしたちは夜遅くまで語り明かした。

最初は、並んでテレビを観て、互いの感想をぶつけあったりした。深夜になるとわたしは布団に入り、春人は枕元に座っていた。友人への暴行に関する話題には触れることができなかった。愉しい時間を失いたくなかったからだ。春人とのこうした時間は、かけがいのない、とても貴重なものに思える。


朝日が顔を照らした時、春人の姿はなかった。代わりに晋之介が部屋を走り回っていた。

「ごめん、もう6時だね」

昨夜、晋之介は旅館から出された特別メニューのドッグフードと、施設に併設されているドッグランを堪能した。晋之介を散歩に連れ出し、旅館のロビーを歩いていると、テレビのニュースが耳に入ってきた。それを観ていた宿泊客が、「まだ若いのにねえ」と電車に飛び込んだと思われる人物を悼んでいた。東京での人身事故は日常で、通勤ラッシュ時に、そういった事故が起きると人々は、犠牲者へ嫌悪感さえ抱く。電車が遅延するからだ。

わたしはそのニュースを気にもせず客室へと向かった。客室に入るとすぐ、晋之介は窓際の広縁で横になった。

「朝食は、どこだったかな?」

わたしは晋之介が寝ている横の椅子に座り、旅館の案内が載ったパンフレットを広げ、朝食会場を探していた。

「急がないと、あまり時間ないよ」

耳に心地よい声。わたしは椅子をくるりと回して振り向いた。春人はすぐ後ろでポケットに両手を突っ込んでパンフレットを見降ろしていた。

「7時半って言ってなかった」

春人は指先でパンフレットをつつく仕草をした。

「そうだね、すぐに行かないと。春人はどうする」

「ここにいるよ」

「わかった」

旅館の草履をつっかけて春人に振り返ると、春人は暗い影を纏っていた。

「春人?」

「ん、ああ。早く行っといで。おいしいものたくさん食べてくるんだよ。元を取れ、桜花!」

春人は両手を高く上げ、大袈裟に手をふった。


朝食を終え、朝風呂につかり、身支度を整え、11時前にチェックアウトを済ませた。

「飛行機の時間まで余裕があるけど、春人、行きたいところある?」

「行きたいとこねえ」

「どこでもいいよ」

「ないな」

ちょうど信号で停車していたので、わたしは春人を見て話していた。朝食の前に見た暗い影は消えていたけど、どこか物悲しい。

「ほら幽霊になってからも何度かこっちにも来てるし、もう地元はお腹いっぱいって感じで」

幽霊という時、春人は両手の甲をこちらに向けて揺らした。裸足の足を組み、シートを大きく倒して腕組をしていた。とても死んだ人には思えない、ふつうの人間だった。春人は早く東京へ帰りたがそうだったが、飛行機の便数は減らされており変更は効かないので、空港近くの公園で晋之介を遊ばせることにした。人の気配がなかったので、春人が晋之介のリードを持って散歩してくれている。春人を見えない人には、犬に繋がったリードだけが浮いていて異様な光景だろう。

「桜花、見て」

「ん?」

土を掘って遊んでいる晋之介の横で春人が手招きしていた。

「どうしたの?」

わたしはベンチから立ち上がり、小走りで駆け寄った。

「えっ春人?」

「ここだよ」

春人の姿が見えない。わたしは身体を回して公園内を見渡した。

「桜花、僕だよ」

足元から声がする。まさかと思ったが、恐々と下を見た。

「桜花」

そこにはちょこんと座る晋之介がいた。舌を出し、わたしを見上げている。

「晋之介……」

「驚かせてごめんね。本当は、こうやって晋之介の中から会話も出来るんだけど、桜花が怖がると思って」

「えっ、晋之介はどうなってるの?」

「意識があるよ。晋之介は桜花が思うより何百倍も賢いからね。すぐに状況を理解してくれた」

「えーっもうなんだかわからない」

頭を抱え、首をふるわたしを見兼ねたのか、春人が姿を見せた。晋之介もふうつに座ってる。

「待ってね、整理するから」

わたしは唇をぎゅっと噛み締め、仁王立ちになってふたりを見比べた。

「春人は自由に晋之介に憑依ができて、その憑依中、晋之介も同居してる」

「うん」

「自由に憑依ができないと思ってた」

「たしかにその通りなんだけど、何度も繰り返しているうちに、自分の意思で憑依したり、抜けたりを出来る様になったんだ。それもつい最近のことだけど」

春人は顔の前で掌を合わせた。

「自分の意識で自由に出来ないって嘘を言ってごめん。だけど、家で晋之介が駆け出したのは、本当に僕じゃないんだ。あれは晋之介の意思だった」

「うん。ううん…」

わたしはうなずき、これまでの内容を頭の中で整理していた。

「それで、いまはふたつに分かれてる」

「そう、この方が自然かな?」

「そうね、晋之介の格好でお話されると、とても異様だよ」

「ごめんね、騙す気はなかったんだけど」

「もういいのよ」

わたしは春人の肘を掴んでベンチに座らせた。わたしもその隣に座り、晋之介も抱っこして横に置いた。

「何度も何度も想像してたんだよ。晋之介とわたしの空間に春人がいたらいいなあーって。夢が現実になった」

春人は返事をしなかった。うなずく事もなく、飛行機の飛び立つのを見上げた。それは、この時間が永遠ではないことを意味しているのだと直感した。わたしに残された未来は、しあわせなではなく償いだとしたら、春人は、それを告げる役目なのではないか。その為だけに、わたしの前に表れてくれた。「人殺し」と呼ばれたわたしの罪を春人は知ってる。

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