第32話 春人が生きていた
「春人、生きてたの?」
「ううん」
微笑んだ顔の春人は首をふっている。直接、彼にふれられる位置まで来ると、わたしは春人の頬に手を当てた。
「あたたかい」
春人は生きていたんだ。泣き叫びそうになるのを抑え、わたしは自分の口を両手で塞いだ。
「桜花、泣かないで。僕は生きてなんかないんだ。死んだんだよ」
「でも、ここにいるじゃない。肌だってあたたかいし」
「ううん」
春人は目を瞑り、首を横にふった。
「暖かいと感じるのも、僕の身体にふれられるのも、それは桜花の記憶が描いた想像なんだ」
「想像?」
「僕にふれた感触、肌のぬくもり。桜花、覚えていてくれたんだね」
「覚えてるわよ。ねえ、良くわからないんだけど、目の前にいる春人は、わたしの想像だっていうの?」
「それは少し違うんだ。説明が難しいんだけど、僕は死人であり、半分蘇りでもある」
「蘇り、幽霊ってこと?」
「ん、そうだね」
春人は口元に、やわらかく握った手をあて、くすくすと笑った。
「僕は幽霊なんだよ」
「なんだか良くわからない」
ふたたび春人にふれようとすると、春人は瞬間移動し、眠る晋之介の横で胡坐を組んだ。
「晋之介くんには申し訳ないことをした」
「どういうこと」
晋之介を挟んで春人と向かい合ったわたしは両手を畳敷きの床につけて、春人を見た。春人は大事な話をする前に良くする、胸を撫でおろす仕草を見せると、こくりとうなずいた。
「この世に未練があった僕は死を受け入れられず、あっちの世に行くことを拒み、死の世界と生の世界の間で彷徨っていたんだ。しかし時は無情にすぎてゆき、何もできないまま、宙ぶらりんに、この世界を漂っていたら、この晋之介に出会った」
「晋之介に?」
わたしたちは同時に、寝ている晋之介を見た。春人は晋之介の頭を撫でている。
「それがさ、ある時気が付いたら、ホームセンターのペットショップ売り場にいてね。僕はむかしから動物は好きだったけど、人間でなくなったいま、動物に警戒されるのが怖く、それまで動物には極力近づかないようにしてたんだ。吠えたてられたり、威嚇されたら悲しいじゃない。でもその日はなんか違った。ペットショップの檻の中で、悲壮感を漂わせ、こちらを見ている柴犬にひき寄せられた。大丈夫かと聞いたら、彼は尻尾と首をたれた。それから少しの時間、晋之介と会話していたんだ。晋之介は人生を諦めた顔付で僕にこう話した。親兄弟と離され、小さな箱に詰められ、ここに辿り着く前に、怖いおじさんに箱から引き出され、値段をつけられ、また箱詰めになったと悲しそうに。僕がその話しに共感していると、君が現れたんだよ」
それまで晋之介に目を落として話していた春人がわたしを見た。目尻を下げた表情は、わたしがいちばん好きだった春人の顔だ。
「驚いて、一瞬、逃げようかと思ったんだけど。可笑しいだろう、会いたかったのに逃げようなんて」
「ううん」
春人の言っている意味がなんとなくだが理解ができた。
「桜花は僕を見つけてくれるのか?だとしても僕を見つけた桜花がどんな表情をするのか、心配で臆病になったんだと思う」
「うん」
幽霊になった春人が、わたしを探し続けてくれていた。嬉しい気持ちより、春人の無念と孤独が悲しかった。
「結局、桜花は幽霊の僕を見ることができなくて、でもこのまま別れたくはなくて、んー、困ったもんだよ」
「その当時の春人は、自分の意思で自由に移動はできなかったの?」
「あの世へ行くのを拒んだ時、正式な手段を取ってなかったから自由ではない。そうだな、あの頃の僕は、例えるなら、空気の流れに任せて漂っていたというか……」
「寂しかったでしょう、絶望的だったでしょう」
わたしは泣き出していた。何年もの間、自分の意思を伝える手段も持たずに、誰にも認識されず彷徨っていた春人が、どれほどつらかったかと、春人の痛みがひしひしと伝わってきたからだ。
「泣かないで。僕は晋之介の身体を借りて、桜花の傍にいることいが叶ったんだから」
「そうなの」
「そうだよ」
「ずっと?」
「何年間もずっと」
「えー、やだなあ」
私生活を覗き見された気になり、恥ずかしくなった。
「でも厳密にいうと、いつも晋之介の身体を借りていた訳じゃない。自分の意思でどうこう出来る訳ではなく。憑依は突然、起きる」
「そう、」
「そう。何気ない日常での憑依もあるけど、何か騒動の前触れというか、そういう時も憑依することが多い……」
春人は言い難そうだった。もしかしたら春人は、わたしが友達を傷つける現場に立ち会っていたのかも知れない。春人はわたしの犯行を知っている。
「きょうはなんで家に駆け込んだの?」
核心に触れる勇気がなかったわたしは話を逸らした。
「きょうに限っては、半分しか憑依できてなかったから、駆け込んだのは晋之介自身かも。晋之介は、桜花に攻撃的なうちの家族に腹を立てたのかも知れない。うちの家族は晋之介に敵認定されたね」
「そ……か」
わたしは眠る晋之介の身体をそっとさすった。そうしていたら、ある疑問が頭を過った。春人は自殺をしたんじゃないのか。しかし彼は、この世への未練を口にしている矛盾。
「あの、春人」
「ん」
「……こうやって、姿を見せるのは、自分の意思なの?」
また話を逸らしてしまった。
「ああ、そうだね。これは自分の意思。意外と安易なことで技術はさほどいらない。しかし僕を見られる人間は限られるけど。ていうか、聞きたいのは本当に、その話し?」
見透かされている。わたしは小さく首をふった。
「なら本題に入ろう」
「うん……あの、春人さっき」
自殺したんでしょう?なんて、なかなか言えない。わたしは乱れた髪の毛をくくり直し、覚悟を決めた。
「春人は…自ら命を絶ったのだと、そう思ってた」
「……」
春人はぎこちのない笑顔を見せ、「そうだよ」と言った。そして彼は微笑むと、コクリとうなずいた。そして頭を掻いた。髪型は死ぬ間際のままだった。それまでは前髪のあるスタイルだったが、亡くなるひと月ほど前に短髪にしたのだ。「どうしたの?」と聞くと、「特に意味はないよ。暑いからね」と彼は素っ気なく返した。
服装は、白いTシャツに、グレイの短パン、靴は履いていない。春人が死んだ時の服装そのままだった。それがどこか生々しく、痛々しかった。
「桜花あのね」
春人がそう言った時、襖の向こうから「ちょっといいかい?」と季一郎の声がした。
「はい」
返事をする前に、春人を見たが、そこに春人の姿はなかった。わたしは立って襖の前まで行き、取っ手に手をかけたが、突然、襖が大きな音を立てて開いた。虚を突かれ、わたしは仰け反った。そして晋之介を見た。晋之介は寝そべった格好で首だけ回してこちらを見ていた。
「あの犬、鎖つけてよ」
季一郎の後ろに隠れ、久子は怯えた指先で晋之介を指した。リードは車の中だ。わたしは晋之介を抱きかかえた。
「すみませんでした勝手に」
そのまま頭を下げると、久子は両手を腰に置き、仁王立ちをした。その姿を横で見ていた季一郎は首を振りながら、居間の方へと消えて行った。
「なんの用で来たの?」
久子が聞いた。
「春人さんの遺品の中を、あの、見せていただきたくて」
「どういうこと。遺品を見るって?」
「その、……」
「あーーーうっとうしい!はっきり喋ってー。そういうとこやで」
久子が大声を出すので、流石に晋之介が反応し、小さく呻った。
「なっなんなん。こっわい番犬連れて歩いて、それで守られているとでも思ってる」
言葉は強烈だが、声は多少震えていた。わたしは久子が不憫に思えた。どうしていつもああいう風に虚勢を張るのだろうか。久子は美人で、高学歴の人だ。子供の頃からの夢も叶える就職もした。しかし弟で長男の春人が家を出たことにより、自分が実家に縛られることになったのだ。キャリアのある仕事も辞め、夫と稼業を継ぐことになったのが納得できないでいる。それでも最初は、子供を授かり、育てる事に喜びを感じていたのだが、妊娠6か月の時に赤ちゃんが胎内で亡くなってしまい。その時の処置が悪く、それから妊娠をしていない。春人によると、その頃から久子の言動はおかしくなったらしい。
「あの、遺品のことはもう大丈夫です…」
わたしは再度、頭を下げて足早に家を出た。外には義理の両親がいて、玄関先にある長椅子に腰かけ空を見上げていた。この数年で10歳も歳を取った様に見える。子供を失うとは、こういうことなのだと改めて実感した。
「あら、帰るの?」
「はい」
義母に話し掛けられ、わたしは頭を下げた。晋之介を持っている腕も限界にきている。
「可愛いわね、そのキツネ」
「えっ、いや…」
晋之介は良く、近所の子供達にキツネと間違われるので、慣れている。
「母さん、あれはキツネやないで。犬や」
「そんなことないわ。キツネに決まっとるやろ」
ふたりの会話は暫く続きそうだったので、わたしは一礼して車に向かった。
晋之介を車に乗せ、ドアを閉めると、季一郎がやってきた。
「嫌な思いをさせて悪かったね」
農作業着姿の季一郎は首にかけたタオルで顔の汗をふいた。もう片方の手には大きなビニール袋を提げている。
「これ、うちの畑で採れたトウモロコシ、良かったら持ってって」
「ありがとうございます、お兄さんのところのお野菜美味しいから」
「趣味が講じてね…」
少しの間を開け、
「桜花ちゃんが悪いんじゃないのに。みんな勘違いしちゃってるんだよ。春人くんを失って、更に、この家はガタガタになっちゃって、もう大変で。桜花ちゃんに何もしてあげられなくて、本当に申し訳ないと思ってる」
季一郎は深々と頭を下げた。
「やめて下さい」
わたしは二三歩、季一郎に歩み寄った。
「どうか頭をあげて下さい」
季一郎はうなずきながら顔を上げた。暑さなのか、顔がほてっている。
「わたし、こう見えても頑丈にできてるので」
車に振り返り晋之介を見た。晋之介は黙ってこちらを伺っていた。
「あの犬もいるので」
「それなら良かった。それなら」
車に乗り込み、ブレーキペダルから足を離した時のことだった。義母が突然、車の前に表れ、両手を広げ立ちはだかった。
「許さないよ!」
凄まじい形相でわたしを睨む義母の目は、数分前とは完全に違って見えた。まるで数千年にも及ぶ恨みを抱えた鬼の様だった。目が血走り、体中の血管が浮き出ていた。
「お義母さん、なんですか!」
季一郎が義母の腰に腕を回して車の前から引き離した。
「行きな!早く!」
必死になる季一郎の言葉で我に返ったわたしはアクセルを踏んだ。急発進する車の後方から、大きな叫び声が聞こえた。
「人殺し!人殺し!」
わたしは怖くなり、助手席の晋之介に手を伸ばした。
「大丈夫だよ」
「え?」
隣には、春人が座っていた。わたしの手を握り、悲しそうに眉尻を下げている。
「しん……」
「晋之介は後部座席にいるよ。何も心配ない」
確認すると、晋之介は伏せをして前足を舐めていた。
「桜花?」
「お義母さんが、わたしにね…」
義母がわたしを人殺しと呼んだ。これまでも口汚く罵られたことがなかった訳ではないが、人殺しとまで呼ばれたことはない。せいぜい疫病神だ。どちらも酷い言葉に違いないが、いまのわたしに浴びせる言葉の中で「人殺し」は最大級だ。わたしは人を殺したのだろうか。
「あそこで車を停めよう」
春人がわたしのシートに腕を回し、「海辺の茶屋」と書かれた看板のある店の駐車場を指さした。見ると海女小屋くらいの小さな店の横に車が数台、停まっていた。サイドブレーキをかけ、シートに身体を凭せ掛け瞳を閉じた。泣いてはいないが、そこはかとない恐怖に支配されていた。
「桜花、何をそんなに震えているの?」
「お義母さんが……」
「人殺しと言ったから?」
「う、ん」
「桜花、目を開けて」
そう春人にそう言われ、わたしはゆっくり目をあけた。春人は先ほど見せた悲しい顔ではなく、やさしい微笑みをしていた。そのままわたしは後部座席を見た。晋之介は眠っている。
「お義母さんは何か知っているのね」
そう言うと春人は首をふり、前を向いて両手を後頭部で組み合わせた。
「気付かなかった?」
「なにを?」
「かあさん、認知症だって」
「ええ、それは……」
重たく暗い空気が流れた。春人がくすくす笑いだす。こういう時、春人はいつもそうやって笑い、場の雰囲気を変えた。
「僕が死んでから、そうだね、数回は、実家にも行ってるんだけど、かあさんは見る見る衰弱して行った。僕の口から言うのもなんだけど、可愛がって貰っていたから、相当ショックだったと思うよ。息子が自殺をするなんて。自殺の原因もわからない訳だし、だからかあさんは桜花を悪者に仕立てたのかも知れない。僕のせいなんだ」
春人はこちらを向いて人差し指を天に向けた。
「桜花」
「……うん」
「そんな顔しないでよ」
「……ええ」
「わかってる。いくら認知症だからって、あんな暴言は駄目だ!僕が謝るから。もうかあさんのことは忘れて」
「いいの、いいの怒ってないよ」
わたしは別のことで笑い出していた。
「どうしたの急に笑って」
「ううん、良くわからない」
「良かった」
「えっ?」
わたしは身体を春人に向けて、シートに頭を預けた。
「桜花が笑ってくれて良かった」
「うん」
「ありがとうね」
それからわたしたちは、今夜宿泊する予定の宿に向かった。
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