第31話 犬がしゃべった!

東京から愛媛までは飛行機を利用した。羽田から松山まで1時間35分。空港でレンタカーを借り、春人の実家のある伊予市に向かう。晋之介が疲れないようにと今回はワンボックスカーを利用、後部座席に乗せて、自由に身動きのできる状況を作った。それというのも、京都の旅が晋之介にとっては過酷だった様で、帰宅後、体調を崩してしまったからだ。今回は慎重に、晋之介の様子を見守る旅にするつもりだ。

「寝ててもいいんだよ。機内で眠れなかったでしょう?」

松山に着いてからの晋之介は、目を爛々と輝かしているように見えた。飛行機に乗る前に飲ませる様にと、精神を安定させる薬を獣医から処方されていたので、少しモウロウとしていると思ったのだが、普段よりも格段と元気な様子に返って不安になった。

「薬の副作用かな」

バックミラー越しで見る晋之介は、窓外の風景をじっと見ていた。暑いので窓は閉めていたが、海岸沿いに広がる果てない青に、まるで獲りつかれた様に見入っている。

「わたしも、この道が好きだった。わたしの時は電車の窓から見える海だったけど。とうとうまた来たね」

愛媛上空から眺める過去の街は、様々な想いを入り交ぜた悲しい色をしていた。飛行機を降り、こうして地上から眺めると、また違った感情が混み上がる。この町には、2度と戻らないと誓い、東京へ出た筈なのに。

春人の実家には連絡をしていない。わたしは彼らの嫌われ者なので、連絡を入れたら断られるに決まっているからだ。ましてや春人の遺品に関することならば尚更。あの家にとってわたしは疫病神なのだから。

葬式以来はじめて訪れる家。この家に来ると、決まって心臓の鼓動が早まり、息をするのも苦しくなる。招かれざる客のわたしは意を決して車のドアを開けた。

みんみん蝉が鳴いている。

大きな平屋に面した道路は舗装されていたが、家に沿って、割と流れの早い水路があるので、タイヤが落ちないようにと、車を道端に寄せるのに一苦労した。生垣と石造りの門から玄関までは100メートルはある。なのにインターフォンはなく、家人の許可なく敷地内に侵入しなければ家の者に、来訪者の存在を知らせることもできない。

「もうどうしよう」

車のエンジンはかけたままだ。晋之介は開けた窓枠に顎を乗せてこちらを見ている。

「暑いから、晋之介は車で待っててね」

クーラーは全開にしてある。例えもし暴れてエンジンを切ってしまっても窓から脱出ができる。ここは車も人の通りも極めて少ない田舎であり、海までの景観を遮るものもなかった。見晴らしも良く、晋之介が飛び出しても安全だ。

「おとなしくしててね。おりこうさん」

車の晋之介にそう話し掛け、家の方を向くと、義母が茫然と立っていた。

「あらっ?」

ふかしたトウモロコシを乗せたザルを小脇に抱えた義母は小首をかしげてこちらを見ている。

「食べる?」

「えっえっいや……」

「あんたじゃないわよ、そこの犬」

義母が顎で晋之介を指すので、わたしはふたりを見比べる様にしてから「食べる」の意味を考えた。

「食べるって、噛むってことですか?」

「そうじゃないわよ、とろくさ」

義母は以前と変わらない口調で、そう吐き捨てた。

「とっとろ……」

「その犬がトウモロコシを食べるかって聞いてるの」

義母は晋之介にあげたいのだと気づき、申し訳ない気持ちで、わたしは額に手を当てた。

「あっいえ、晋之介にはトウキビは食べさせないようにしているのです。消化が気になり…」

「あっそう、せっかくこんなにふかしたのに残念ねえ」

義母はそう言うと、おもむろに1本掴み、食べ始めた。

「お、おかあさん?」

先程までは気付かなかったが、義母の目は虚ろ、視点が定まっていない。トウモロコシの粒が口の端からぽろぽろ零れ落ちても構わない様子だ。看護師でなくとも、一目で病だと気づく。良く見ると靴下で下りて来ていた。

「そうそう、あんた」

義母はトウモロコシで膨らんだ頬で、わたしを睨みつけた。

「その言い方やめてくれない」

「なっなんの言い方ですか?」

「そのトウキビって言い方よ。あの北海道女を思い出すから」

「北海道…おんな…」

北海道女とはわたしのことに違いない。義母はわたしを認知していないのか。認知はしていないが、わたしへの憎しみは消えていないということか。

「お母さんどうしたの?」

義姉の声だった。わたしは身体を翻し、車の方へと早歩きで向かった。

「桜花さん?桜花さんじゃないの」

わたしは立ち止まったが、背を向けたままで、すぐに振り返る事はしなかった。義姉に対し、何か後ろめたいことがある訳ではないが、義姉からしてみれば、わたしの存在は、ただただ気に入らない嫁。それ以上でもそれ以下でもない。春人の実家に来れば、義姉と対面しなければならないことは重々承知していた筈なのに、ここに来て怖気ついたようだ。

「ねえ桜花さん」

「はい」

わたしは晋之介に向いた身体をゆっくりと義姉の方へ向けた。義姉は母親の肩に手をあて、屋内へと誘っていた。そしてこちらを見て、淡々とした口調でこう言った。

「母を寝かすまで、そこにいて」

わたしはうなずくでもなく、肩と首をがっくりと落とし、立ち竦んだ。

日差しがジリジリと身体を焼きつける。帽子は車内にあった。掌を頬に当てると、汗が手首を通じて、肘まで流れた。

もう10分はここでこうしていた。義姉は性格のキツイ人だ。言い付けを破り車内に戻ったりしたら何を言われるかわからない。しかしもうそれも限界かも知れないと思った時、納屋の奥にある畑の方から、中年の男が駆け足でやってきた。

「桜花ちゃん」

義兄だった。厳密にいうと春人の義理のお兄さん。義姉の夫である。

「お兄さん」

ぼんやりと顔を上げると、熱さで屈折し、ゆがんだ空気の中に義兄がいた。

「そんなとこにいたら頭がおかしくなる。ささ、中へ入って」

義兄、季一郎はそう言って、頬を緩めた。この家で唯一、わたしにやさしくしてくれた人だ。わたしは、はいとうなずき、晋之介の方を見た。

「おや、犬かい?犬はあかんな。久子が嫌うから」

久子というのは義姉のことだ。婿養子ではないが、この家の稼業を継ぐことになった季一郎は久子に頭が上がらない。

「晋之介、もう少し待てる?」

わたしがそう声を掛けると、それまでおとなしくこちらを伺っていた晋之介は立ち上がり、窓から飛び出した。

「晋之介、だめ!」

制止を無視し、わたしたちの横を通り抜け、家の中に一気に駆けあがった「ぎゃあああああー」

断末魔に似た悲鳴が聞こえ、わたしは声の方に向かって走った。

晋之介は狂暴な子ではないが、対峙した相手に大きく手を振られ追い払われたら、攻撃されていると思い込み、噛みつくのではないか。心が焦った。

「晋之介!おいでー!」

ありったけの声を張り上げて居間に入ると、腰を抜かして座り込んでいる義姉が「あっち、あっち」と髪を振り乱して居間の奥にある座敷の方を指さした。

「すみません、お義父さん、お義母さん」

わたしはソファーに座り、こちらを見ている義理の両親ふたりの前を早足で通り過ぎた。

「晋之介……」

晋之介は仏間にいた。仏壇前の座布団に座り、遺影の春人を見ていた。わたしは両開きの襖をゆっくりと一枚づつ閉めていった。最後の一枚を閉めようとした時、季一郎が敷居の向こうに見えた。

「大丈夫?」

「はい。申し訳ありませんが、少し時間を下さりませんか。晋之介を落ち着かせましたら、すぐに帰りますので」

「構わないよ。ここはいまでも桜花ちゃんの家じゃないの。晋之介くんっていったかな?知らない土地に来て興奮してるんだろう」

季一郎は何度もうなずきながらそう話し、いきりたつ久子を後ろ手で制止してくれた。

「ねえ、晋之介」

わたしが晋之介の横に座ると晋之介は伏せをして目を閉じた。

「晋之介、聞いてるの?勝手に人の家に入ったら駄目じゃない」

「人の家じゃないから」

「えっ?」

人の声?それも春人そっくりの。わたしは広い仏間の中を見渡した。

「なんか、聞こえた?」

晋之介の顔を覗き込んだが、晋之介は眠ってしまっていた。

「桜花、僕だよ」

声のする方に向いた。

「えっ、春人?」

窓枠に足を組んで座るのは、紛れもない春人だった。

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