第29話 罪の代償

真夏の日差しの余韻が、夕暮れの公園に籠っていた。近く台風が関東を横切る。それでも暑さを耐えられるは、強く吹く、この風のお陰かも知れない。

蝉の合唱が響く。これだけの音量だ、想像もつかない数の蝉がこの公園の中に生息しているのだろう。そう考えると少し怖くなった。

いつものベンチに腰掛けると、足元に小さな生き物の死骸が目についた。わたしは身体を曲げて顔を近づけた。

「うわっ!」

死骸だと思っていた虫が飛んで行った。元気はあるようだ。暑くて地面で休憩したのだろうか?小さな蝉だった。

「晋之介、びっくりしたねえ」

蝉に全く興味を示さない晋之介の目線の先は、この頃、良く見かけるハスキー犬とトイプードルにあった。40代と思しき男性がひとりで連れている。彼は良く犬に話しかける。それはわたしが晋之介に語りかける以上だった。彼らは飼い主と犬というよりも、信頼関係の篤い友達同士に見えた。微笑ましい限りである。わたしは彼らに出会うのを心待ちにして、この公園に来ていた。

10分程で彼らは公園を出て行った。わたしは未だここにいる。昨日、由香里から、近所まで来たついでに最寄りの駅で会わないかというメールが届いた。メールアドレスと居住地は美南から聞いたと言っていた。勝手に人の個人情報を渡すとは、少し迷惑な気がする。

「ねえ晋之介、教えないで欲しかったよ」

京都の町屋旅館で会ったきり、由香里とは連絡を取っていなかった。囲炉裏部屋で別れたのが最後だ。由香里はその風貌も変わっていたが、性格も嫌味な感じになっていたので、あまり関わり合いになりたくない。今回もなぜ急に会おうと言ってきたのか疑問しかない。とにかく自宅は避け、この公園で待ち合わせることにした。

「由香里、整形したのかな?」

遡ることひと月前、納戸の整理をしていたら、むかしのアルバムが出て来た。わたしはそれを開くのを躊躇い、また元の位置に置いたのだが、一枚だけがふわりとアルバムの隙間からこぼれ落ちた。拾い上げると、それは数年前のバーべーキューパーティーでの集合写真だった。仕事関係者、美南、紗耶香、わたしと春人、そして由香里がいた。

「由香里だよね、うんそうだよね、これが由香里だよ」

わたしの近くでおもちゃを噛んで遊ぶ晋之介に見せると、晋之介は写真の匂いを嗅いで、わたしを見た。大きく口を開けた笑い顔をしている。

わたしはその写真を持ったまま、ベランダに出て椅子に腰かけた。6月だというのに、その日は真夏に似た暑さだったことを思い出し、数秒で引き揚げると、居間のカウチに寝そべった。

「なんで顔が違うんだろう?」

何かが気になる。仰向けで写真を見ながら、わたしは物思いに耽っていた。

約束の時刻を1時間も遅れて由香里は到着した。

悪ぶれた風もなく、優雅な足取りで公園に入ってくる。公園の石の地面に散らばる砂や小石が気になるのか、8センチもあろうヒールに気を使い、ヨタヨタとする場面も見られたが、それでもセレブ感の方が勝っていた。

「ひさしぶり桜花」

「ひさしぶり」

ー由香里、時間を間違えたのかな?ー

待っている間、何度もメールの内容を読み返したので、わたしが時刻を間違えていない確信はあるが、しかし彼女のこのあっけらかんとした対応を見ると、彼女は約束の時間を勘違いしているのだと考えるのが、筋が通っている。

「迷った?」

わたしは腕時計を見る風に手首を見たが、時計は家に置いてきていた。

「ううん、桜花の説明が上手だったから。吉祥寺からタクシーで来たけど迷わず来られたよ。どうしたの手?」

「あっいや、蚊に刺されたのかな?痒くて」

腕時計のない手首を見る仕草がばつが悪く、わたしは咄嗟に嘘をついた。

「座るね」

ベンチの左隣に座った由香里は、伏せている晋之介に目を落とした。

「この犬、いつも寝てるね」

「そ、そうかな?」

「あの旅館でもずっと寝てたじゃない。不愛想だよね」

「いや、不愛想なことはないんだけど、柴犬というか、日本犬の特徴で、他人にあまり興味を示さないというか、媚びないというか……それも、魅力で…」

「それって、洋犬が媚びを売るみたいじゃないの」

次第に小さくなるわたしの声を遮るように由香里は話した。

「そっそんな意味じゃないの。誤解をさせたのならごめんなさい」

「別にいいのよ、わたしだって特に犬が好きな訳じゃないし」

「あっでも、大きな犬を2頭も」

「あれは旦那の趣味。わたしも旦那に好かれようと合わしているけど、本当は犬なんて大嫌い。特に大型犬はね。あの2頭、ぜーんぜーん懐かないし、よだれは垂らすし、臭いし」

由香里は腕を交差し、身震いをして見せた。よほど犬が嫌いみたいだ。

「わたし、本当は猫が好きなんだけどさ、旦那、猫アレルギーなんだよね」

「そっか、それは飼えないね」

「飼えるよ!」

由香里がいきなり大声を出し振り向くので、わたしは驚いて、身体をベンチの端に寄せた。

「アレルギーの注射打てばいいんじゃん。旦那はね、健次郎っていうんだけど、健次郎はアレルギーのせいにしているけど、嫌いなのよ猫が」

「そうなんだ」

「そんな話はどうだっていいんだけど、それより桜花ってさ、相槌しかうたないね?」

「そうかな?」

由香里は組んだ足の上に肘をつき、わたしの顔をジロジロと見た。

「なに……」

「春人くん、なんで死んだの?」

にこりと由香里は笑った。

「知ってたの」

「まあね」

「あの時も知ってた?」

「知ってたよ」

「なんで言わなかったの」

「さあ?」

足を組みなおした由香里は前を向いた。

「その方が面白いじゃない」

わたしを見て、ふたたび微笑んだ。

あれだけ大騒ぎしていた蝉の音が、一気に止んだ気がした。由香里の不適な笑いを受け止められず、わたしは視線を外した。

「桜花、わたしに気づかなかったでしょう」

「ええ…」

「だってわたし、わたしじゃないし、仕方ないよ」

わたしは由香里を見た。由香里はさきほど同様、組んだ足に肘をついてわたしを見ていた。

「わたしじゃないってどういう」

「あははははははははは……」

由香里は急に笑い出し、呼吸もできないほど笑ったかと思ったら、今度は泣き出した。

「整形したのよわたし」

「そうなの?」

「知ってたでしょう、わたしが整形だって」

涙で目元のメイクが崩れ、パンダみたいになった由香里が真剣な眼差しを向けて来た。

「これってお互い様だよね」

「お互い様?」

真面目な話なのにも関わらず、メイクの乱れが気になり、不謹慎にも、笑いを堪えるに必死なわたしは、うつむいて顔を両手で覆った。

「桜花、あんたが泣かないでよ」

泣いてない、笑いを堪えてるだけ、とはいえなかった。肩が震える。どうしよう。一拍おいて、わたしは聞いた。

「お互い様なの?」

「そうよ、お互い様。わたしの整形に気づいても言わなかった桜花と、春人くんの自殺を知っていても言わないであげたわたし」

「なんか違うような気がする」

顔を上げ由香里を見ると、メイクが崩れているのも知ってか知らずか、彼女は気取った雰囲気を貫いていた。そして姿勢を正し、髪の毛を大袈裟にかきあげた。

「あの」

わたしは立ち上がった。怒った訳ではない。この状況を由香里に伝えるべきか悩んでいるのだ。悩んでいるうちは、顔を見ないでおこうと思った。

「由香里、あの、メイクが……」

「謝らないでいいよ。桜花には、もっと違うことで謝って欲しいから」

座りなさいとでも言いたそうに、由香里はベンチを右手で叩いた。わたしは黙って指示に従った。

「謝るって、わたしが……」

同じ状況を二月前にも味わっている。きっとわたしは、封じ込めた記憶の中で、由香里を傷つけたに違いない。Tシャツの裾を握りしめ、気づくと痛いほど、唇を噛んでいた。

「そうよ、謝って欲しい。そうしたら許すから」

「教えて、何かしたの、わたし」

声が小さかったのか、由香里は耳に手をあてて、「え!」と叫んだ。

それに晋之介が反応して伏せた状態のままで首をまわし、由香里を見た。由香里はシッシ、と手をふった。晋之介はまた前を向いた。

「そんなに声、小さかったっけ桜花」

「いや、会話の内容が……」

「まあ、むかしから言葉数の少ないタイプだから仕方ないか」

いいわ、と言って由香里は足を組みかえた。こちら側に向いていたヒールが、ずっと、わたしのズボンに当たっていたのでホッとした。

「交換条件するよ桜花」

「交換条件って?」

「ほら、わたし整形じゃん。それを旦那に言わないで欲しいのよ」

「知らないの、ご主人?」

「知る訳ないよ。元々のわたしはそばかすの、地味な顔だなんて。まあむかしの顔だったら、奴と結婚できなかったし。誤解しないでね、奴を好きな訳じゃないけど、なんせ金持ってるから」

由香里は人差し指と親指の先をつけ丸をつくり、にやりとした。またお金かと、うんざりした気分である。

「結婚式はしてないの?」

「結婚式も披露宴もしてない。そういうの旦那も興味なかったから好都合だったわ。むかしの写真なんかは合成したりして。苦労してんのよこう見えても」

「はあ、それでわたしの方の交換条件って」

再び足を組みかえた由香里のヒールのつま先が、わたしの膝を蹴ったが、彼女は気にしていない様子だった。

わたしは膝をずらし、小さく埃をたたいた。

「ねえ、春人くんなんで死んだのかな?」

それまでおちゃらけた態度だった由香里の表情が変わった。悲しげに、遠くを見つめている。

「わたしと桜花の喧嘩の仲裁に入ったのが、最後だった」

「けんか?」

やはり、わたしと由香里は喧嘩をしていた。その理由は一体なんなのか。わたしは身を乗り出して、由香里の横顔を眺めた。

「あなたから電話があって、日時を指定された場所に出向いたじゃない」

「それ、いつのこと?」

「わたしが病院を辞める少し前。えっ、覚えてないの?」

涼し気に語っていた由香里が険しい顔でわたしを見た。化粧の乱れが固まって、模様の様になっている。

「ごめんね、わたし断片的に記憶を失くしてて」

「そうなんだ~」

由香里は唇だけで微笑んだ。その顔が酷く怖かったのは、アイメークのせいだろう。わたしは視線を逸らした。

「ふーん、そうかもね」

「えっそうって」

由香里が前を向いたので、わたしは由香里の方を見た。

「あの時の桜花、なんか違ってたし。わたしとは逆でブスに整形したのかと思ったよ」

「……」

あの鏡の中の女のことだろうかと考えた。

「桜花さ、春人くんとわたしのことを疑ってて」

そこまで言って、由香里は顔の前で手をふった。

「違うな。わたしが春人くんに気があることを知って、それで怒ってた。わたし、電話の声の桜花に会うのが、なんとなく嫌で、だっていつもと声質も違うし、怖くてね。待ち合わせの場所に行かなかったら、桜花、わたしの自宅アパートの前まで押しかけて来て、それも夜中だよ。仕方なくドアを開けたら、いきなり襲い掛かってきたの」

「嘘……」

「嘘じゃないよ」

由香里は穏やかだった。そして自分の右頬をさわった。

「すごい力でさ。あのひ弱で細見の桜花とは思えないくらいの腕力で、わたしを押し倒して、首を絞めたの」

「……」

「もう死ぬかなって思ったところで、春人くんが現れて、桜花を羽交い絞めにしたんだ。助かった~って思ったよ」

「……」

「春人くん、暴れる桜花を羽交い絞めにした格好で、わたしに何度も謝罪してた。ふたりが去ってから、急いで玄関の鍵をかけ、部屋に入ったよ。それからわたしは一度も出勤せずに病院を辞めて、暫く海外とか行ってた」

「……」

「退職金なんてないし、貯金もなかったけど、春人くんがお見舞いと謝罪と口止め料だって、十分なお金をくれたから、それで生活もできたし、整形もした」

「そう、だったの」

話しを聞いているうちに目眩がしてきた。自分が犯した罪の償いを、春人はしてきたのだ。都合の悪い記憶を消し、のんべんだらりと暮らして来たわたしとは違い、妻の罪にひとりで向き合ってきた春人が、どれほどつらかっただろうか。

これからは、自分が贖罪する番だ。消えた記憶の部分を呼び戻し、罪と向き合わなければと、その時、わたしは決心した。

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